カテゴリ:ちょっと考えたこと
このブログも何年か書いていますが、その内容はというと
一番初めのきっかけは、 とある関わりから全国の子育て支援団体のリーダーさんなどと交流することがあって そのとき、思えば自分の所属団体にホームページがないということ があり せめて自分自身の、活動に関わる思いをつづったり、活動のなかで大事だと思うことを 書き記す場所が欲しいなと言うところでした。 その合間に子どものことなどもあり… そのうち、団体と個人のブログは当然別物ということで、個人的なことを綴り始めて きましたが、その内容たるや 「不満を文字にした=批判」 と、大差ないのかもしれないとふと思いました。 特定の相手を設定せずに書いているという意味では個人攻撃にはなっていないと思うし、 そう思うと批判といえるかわからないけれど、ベースには批判がある。(という自覚がある) 悔しい気持ちを文字につづる、というような感じになってしまっている自分のパターンを しずかにふりかえってみると、 批判や批判する自分によって、自分の支えになっていた可能性もあるなという気がしてきました。 と書くと、それもどうなのかという気がするような。(笑) 批判をするということは、とりあえず自分はその対象より マシなところにいてマシな生き方をしているような感覚になるし、 自分自身は真っ当なことを言っているつもりなので 真っ当なことを言っている自分の方がまともで立派な感じがするのです。 おそらく 一般的に、政治などに対する批判、についても すべてがとは言わないけれど、場合によってはそういうジャンルに対して意見を述べる自分、 というのが、何を言っているかよりも言っている本人にとって重要なのかもしれないと思ったりもします。 (もちろん、市民がきちんと見て言うべきことは言わなくてはいけないことには変わりないのでそれを否定するわけではありません) 悪い言い方をすると批判をする自分に酔う、みたいな言い方ができるかもしれません。 自分ももしかしたら、そういう時期がずいぶんあった(今でも)のかもしれない。 でもそれも、生きていく上で必要だったかもしれない。 批判ばかりしている評論家の自分を家族は見ていたとは思うけれど。 それに疑問を持たないわけでもない、というような。 *** 最近、とある家族との会話でハッとしたことがありました。 それは本人の人生の転換期にまつわる話でしたが かつての経験から次へ一足飛びにはいけなかったこと、 でもあるポイントで、このままではいけない、とリアルに生きることを決めたこと。 その当時の本人をずっとちかくでみていたので、ああ、そうかそうだったのかと 納得するようなことでしたが 確かに、苦しい時期があったのだと 私も一言言いたい気持ちもありながらそんな本人の気持ちも想像できたので じっと、その時が来るまで何も言わずにという頃の話で。 でも覚悟を決めて、自分の先を見て、 誰からどう思われるとか、格好つけるとか そういうのは抜きにして歩き始めた本人を見て かつて、学生のころどこか本気度がないようにみえて 私自身もやる気をなくしていた頃を思い出したりして。 親として、やれるべきことをやれなかったという(あくまでこれは私自身が思うこと) これもまた情けない話ではあるけれど 当時の自分の器がそんなもんだったということなのですが。 それでも、人の本気度っていうのはいつかどこかで発揮されるというか 人生のうち毎日本気で生きている人だってもちろんいるだろうとは思うのですが ここぞという時に立ちあがるというか それはなんというか、目の輝きと言うのか、見た目だけでない行動だったりするのか そういう傍目からみても明らかに、ああ何かそのつもりで腹をくくったなということがわかるような なにか 人生のうちにそういうときってきっとあるのだろうとは思って 当時自分がやってやれなかったことの一部を 自分がやれたらやっていきたいとふと思ったので覚書です。 ただし そういう自分の思いや言動だって、自己満足の可能性も大きいし、 「こんな覚悟をしてがんばっている息子を応援したい」と思う私の気持ちだって 少し斜め上から見て「評価」し(批判と同類)「やってあげたい」と思う、 傲慢な態度なのかもしれないという自覚も半分もちながら。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.09.30 06:13:55
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