カテゴリ:ちょっと考えたこと
「心配する」というワードは、基本的にはマイナスな意味には取られないことが
多いのかもしれない。 誰かの何かに思いを寄せ、「大丈夫かな」と「心配する」というと それはなんだか立派な行為に思えてくる。 それが、仮に立派な、思いやりにあふれる、素敵な行為だ。という 前提があるとするならなおのことだと思うけれど 人は「心配する行為」に依存するのではないだろうか。 家族の何かを心配する、とする。 我が子の何かを心配する、なんてことは親ならよくあることかもしれない。 だが 心配された人の感情に焦点をあてると 必ずしもうれしいことではなかったりするようだ。 「心配」は「不安」と隣り合わせな感情でもある気がする。 「不安」だから「心配」するのだとしたら 心配は不安に裏打ちされており、心配される人は心配する人の不安により 心配をされている、ということになる。 相手に不安を持たせているのでは?という感情が一瞬、沸き起こる。 では なぜ相手が不安になるのか?自分が相手を不安にさせる要素を持っているからか? だから不安になった相手は自分を心配するのだろう。 そういうロジックが成り立つ なら 心配されるということは、自分が誰かに不安を与えているということになり 必ずしもそれ自体、喜ばしいと思えないことかもしれない。 ところで 心配する側はどうだろう。 心配は、人を思う思いやりの心、みたいな意味だと思っている人も多いだろう。 優しいから心配してあげる。 いつも気にかけている優しい人の権化か。 心配しているという行為が相手に対する優しさと同義と思っているなら 心配している間、その本人は優しい人でいられるのかもしれない。 心配するだけで、優しい人になれるんだとしたら。 そんな手っ取り早いことってあるだろうか。 心配するということは 感情なら自然に湧いてくるから抑えることはできないだろうけど それを表現するとなると 意味が違ってくるのかもしれない。 心配を人に伝えるということは 「私は心配してあげている優しい人」アピールになり ともすると心配された側は先ほどのロジックにより 「人を不安にさせている張本人」になるわけで 心配されたからと何かが1ミリでも変わるのかと言われたら そんなことはない。のだとしたら。 心配する行為というのは 困っている人を気にかける優しい人になったような 気になる、陶酔みたいなのに近いものかもしれないし 心配しているということを伝えるのは 場合によっては あなたが私を不安にさせている みたいなメッセージにもなりかねないのかもしれない。 軽い気持ちで発する「心配」は 発する人が不安から逃れるための、逃げ場みたいなものなのかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.09.09 17:45:51
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