カテゴリ:ちょっと考えたこと
一か月ほど前に、我が家の家族が一人暮らしをするということで引っ越しをしました。
わけあって実家にいた人が 別のところに居を構えて暮らすということについて 何が円満なのか 幸せなのか みたいなことが気にならなくもないわけですが。 今回は、何となく会話のやり取りから 親の立場から子の立場へ「自立すべき」という意思が伝わることとなり その結果、出ていくみたいなことになって それでよかったのかどうか みたいなことを 数日前にグツグツと思ってしまっていた自分がいたのですが 今日、ふとした瞬間に、こういうグツグツは傲慢だなと思ったのです。 親元にいれば もしかしたらバランスのとれた食事をすることができて 多少は健康的な日々を送ることができるのかもしれないのに 金銭的な自由度も低い人が一人暮らしになれば 健康を損ねるのではないか というような心配からくる 「後悔」は傲慢だなと かつて自分が相手に自立を求めたのは何だったのか 当時それを相手の幸せに必要なことだと思ったから そういう意思を自分が持ち、伝え方の是非はあるとは思うけれど それが自分の本音だったわけだし それに応える形で生活を決めた人がいるのならそれを尊重するべきだと 今日はふと思ったのです。 ひとつ前の投稿「心配」と同列な気もしている「後悔」 これも 実はとても傲慢で自己憐憫に浸った感情ではないかなと気づいた次第で それはなぜかというと 自分の中でぐるぐると考えるそういった思考のなかに欠如しているものがあって それは「相手本人の気持ち」ではないかと。 「こうしてほしいと思っているはず」と決めつけることとか 「あのときこうしておけばよかった」と出来もしない(出来もしなかったし 今後もきっと出来もしないであろう)ことに浸ることの意味のなさ。 これも依存だし 後悔に浸っている間は、ああでもないこうでもないとどっちつかずで いつか自分が誰からか肯定されて、オールOKの評価をもらえそうな 後悔している姿勢がさも 謙虚で美しいかのような錯覚を持っているのだろうと 思うのですが 果たして本当にそうだろうか。 決めたことや行動したことに責任を持っていない。 それが後悔なんだと思うのです。 仮に自分の言動が軽率だったとして、他人に対して申し訳ないと 本当に思うのであれば それに相応しい行動を起こせばいいだけであって 中途半端な「後悔」などではなく 申し訳ないと本気で思うわけでもなく でもどこか誰かに責められているような後ろ暗い感覚もあるから 「後悔」みたいな言葉を引っ張り出して 何とか許してもらおうとしているのか 傲慢な感じがしてしまった。 人と人との関わりあいに 正しいという答えなんかなくて ぶつかった瞬間があるのならそれがリアルであり 誤解だの勢いだの言っても その出来事がまぎれもない事実だったわけで そのことをきちんと自分で引き受けているのか ということ。 自分の感情を表現すると 押し付けるとか言われてマイナスな評価をされがちだけど 人の本音なんて 隠してもいつか伝わるもので 黙っていても態度なり 何かしらで伝わるから 隠すことなんてできないだろう ただ誠実に「こう思っている」を率直に表したときに 相手が受け取れなかったりすることは 当たり前にあることで 双方が必ず同意しないといけないとか 分かり合えなければいけない なんてことは 不可能なことがほとんどではないだろうか 人はみんな 違う人間なのだから ほんの少しの接点で 苦楽を分かち合う時間があったとしても 毎日の生活の中で 多くを共感し同意しながら暮らすなんてことは 奇跡に近いことなのかもしれないし だから たまに会ったときに 最低限 相手を傷つけたりしないような態度が取れれば 200点なのかもしれない。 だから「あのとき私がこうしていれば(相手を不快にしなかった)」みたいな 言い訳くさい「後悔」みたいなことって 本当にいちいち思うだけで不毛だし それをぐるぐる自分の中でリピートして「自分はだめだった」みたいなことを 自分の脳みそに上書きするなんて 本当にしょうもない、何も生まないどころか 害悪しかないのかもしれない、と気づいたのでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.09.09 21:39:44
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