|
カテゴリ:カテゴリ未分類
いろんな創作では禁じ手というものがあります。
例えば「はっ、夢か」ってなる夢オチ。 でも、夢オチの作品が一切ないかというとそうでもない。 禁じ手ではあるけれども、それを使って「面白くなる」のであれば許される、という考え方。 でも、どんな作品も全部夢オチだったとしたら、誰も物語を欲しなくなりますよね。 よって、夢オチは回避されがちになるのです。 回避が積み重ねられると、それは禁忌、禁じ手となっていくわけです。 どんな話にでも使える万能なオチというのがあるわけです。 それは何か。 「水槽の脳」というやつです。 (wikipediaから転載してみる) 水槽の脳(すいそうののう、brain in a vat)とは、「あなたが体験しているこの世界は、実は水槽に浮かんだ脳が見ている夢なのではないか」、という仮説。哲学の世界で多用される懐疑主義的な思考実験で、1982年哲学者ヒラリー・パトナムによって定式化された。正しい知識とは何か、意識とはいったい何なのか、といった問題、そして言葉の意味や事物の実在性といった問題を議論する際に使用される。水槽の中の脳、培養槽に浮かぶ脳、桶(おけ)の中の脳、水槽脳仮説などと訳される。 (引用終わり) 要するに何が言いたいかというと、いろいろすごい物語があって、それを主人公が体験しているように見えても、最後のひとコマで「水槽の脳」を映すと、「この物語は脳が見せられている幻でした」というオチを演出できてしまう。 つまり、今まで見せられてきた物語が幻だったということを急に宣告されて話が閉じられるというショッキングな仕掛けというわけです。 それに比べると普通の物語というのは、本を閉じて余韻を味わい、その世界もまだこういう風に続いていくんだろうな、と思いながら読者はやがて現実に帰っていく、という流れが多いのだと思います。 物語の中で「これは現実とは違うんだぞ」と夢オチを超越する衝撃を読者に与えるのはなかなか不誠実なやり口で、「そんなことはわかってるんだい。でも物語を楽しんでいる間はそんな無粋なことを言わないでくれ」という気持ちになるわけです。 さてさて、それはさておきですよ。 「水槽の脳」は物語のオチにしてしまうとこんな簡単なのですが、wikipediaの引用をもう一度読んでみましょうね。 これは哲学的な話であって、物語じゃすまないんですよ。 古くは荘子の「胡蝶の夢」みたいなのもありますが、要するに「現実だと思っていることが実は幻」ということに気づくのって結構な衝撃なんですよ。 日頃なにげなく生活しているように見えて「実はそれが別構造の物語でした」と突然宣告されたとしたら? 今まで「ボーっと生きてたこと」を知ったとしたら? そしてそれはどうあがいても取り返しがつかないと知ったとしたら? 自我と世界という対峙でものごとを考えていて、自我と世界でどう関わっていくかという風な感覚で生きている人は多いと思うが、ある日突然、世界は自我に向かって牙をむく存在であるという事実をつきつけられたら? そしてその物語の枠組みの中で生きることを迫られたら? こういうことを考えた時、私は生き抜くことはそう簡単ではないと思うのだ。 人生を生き抜くには敵が大きすぎる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年03月26日 00時56分41秒
コメント(0) | コメントを書く |
|