女性・女系天皇論議と読売の解説記事に思う
今年最後の日記になると思います。1週間も前の新聞記事なのですが気になっていたのでメモしていたものがあります。 読売新聞の今月24日(土曜日)の「潮流2005」なる解説記事。今年の大きな話題でもあったが、有識者会議が女性・女系天皇の容認を打ち出したことについての解説。 どういうわけか、記事の冒頭で今月の宮城県議会における慎重な検討を求める意見書の採択の問題が、「政府関係者が注目した地方議会の採決だった」として紹介。宮城県民としては、県民レベルはおろか、同様の動きのあった仙台市議会や当の県議会においてさえ、そんなに議論が深められたという印象はないから、格調高く取り上げられるのは、ちょっと意外。 さて、この解説記事の論旨は以下のとおり(ODAZUMA Journal要約)。------------○ 宮城県議会の意見書の動き、東京での超党派国会議員勉強会の動きなど、政府の動きを拙速だとする根強い批判がある。○ しかし関係者は動じない。宮内庁は8年前からひそかに専門家を招き勉強、その蓄積を踏まえて有識者会議の判断を得た。拙速の非難は当たらない、と。○ 背景には皇位継承者がいなくなるという強い危機感。○ 2年前からは官邸とも定期的に情報共有。現行の典範によって秋篠宮家の内親王がやがて皇籍離脱を決意してから女性天皇を容認しても安定を欠く、との「タイムリミット」論が認識され作業を急いだ。○ 平成の皇室の特徴は国民とのふれあいを大切にする姿勢。読売新聞の世論調査(12月)では、女性天皇賛成73%、女系天皇容認60%、さらに皇室に好感を持ち、存続を支持する意見が多数であることから、男女や血統よりも活動ぶりが支持されている。○ 皇室の伝統も国民の総意で変わりうる。来年国会審議に入る皇室典範改正の論議は、男系か女系かの議論にとどめず、皇室のあり方を考える契機にもしたい。------------ アレアレ、読売さん、本当にそれでいいのですか。女系天皇容認に慎重の姿勢だった読売が、国民の皇室支持が多いことをエクスキュースに、形勢不利になったからか、議論の本丸にはフタをする準備があることを示した、と見える。編集委員の名とはいえ、わざわざ天皇誕生日後の連休中日の土曜の紙面にこういう記事を出すとは、今後の論陣変更の素地づくりと思われる。うがった私見か。 私自身は、この問題に自分の主張というのを持っていない。 敢えて言えば、現憲法の天皇制自体が人権保障の一大例外であって、その具体的態様である男系男子主義も、そもそも男女平等などという憲法の普遍的(とされている)価値からは説明できるものではない。いわば制度の決めようである。それこそ国民の総意(憲法1条)で如何にでも、と。極言すれば憲法改正により天皇制を廃止することにも、体を張って反対するほどの抵抗もない。みんなが、女性・女系というなら、それでいいんじゃないか、というところである。 ただ、他方で、次のようなことも感じて来た。 私のような、無色透明の価値相対主義の立場(「立場」とさえ言えないかも。無関心というのが近い。)ではなく、1つの極には男女共同参画という政策的象徴として女性天皇を積極的に推進する意見があり(女性と女系の違いが深く議論されていないように見えるが)、反対の極に、男系天皇という万世一系の日本の誇るべきアイデンティティを守れ、という意見も強い。前者は、国民の総意として天皇制の態様をデザインしようと言うことだろうし、後者は総意もヘッタクレもない、それこそが前憲法的で普遍的な日本の価値だというのだから、これらはもともと議論の平面が異なる。かみ合わない。 読売と関係の深い「中央公論」は、去年当たりから「男系」維持の論陣を相当強く打ち出している。つい最近の「1月号」でも、「国民の100%が反対しても存続させなければならない、それが伝統というものだ」という旨の有識者の意見を対談の形で載せていたばかり。 たしかに日本人の伝統あるいは価値観が揺らいでいるようにも思う。 私は、さきほど無色透明の価値相対主義と自分を評したが、天皇制のあり方のみならず、日本や日本人たる伝統や社会の規律、あるいは「日本」という属性を強調するまでもなく社会に生きる人間としてのマナーや礼儀が、混乱して、誰もが同意する規準が見失われてきてきているという感じがある。 戦後の教育(家庭も学校も社会も)の影響があるのだと思う。象徴的に言えば、朝日・岩波・日教組の三点セットに代表されるような知識人の態度に先導され、社会主義へのアフェクションが現状への不満と相まって、伝統的なるものを無視あるいは敵視してきた。 私の小学校時代も、価値相対主義、多数決主義、欧米文化の合理性、精神主義日本の劣後性、押しつけ教育の排除、などの流れに明らかにあった。先生たちもある意味で理想に燃えていたのだろうが、ストを決行し、君が代は歌うなと言った。 でも、その先生たちも授業以外の時間にいろんな事を教えてくれた。それは、親や年寄りを大事にしろ、地元に誇りを持て、などという絶対的な価値観だったように思う。先生たちも、悩みがあったのかも知れない。いや、あったはずだ。あの先生なら、教壇で(それも今は消滅したが)、子どもたちをどう導くだろうか... そんなわけで、相対主義ではなく、絶対的に「誰が何と言ってもかくあるべし」という規準は何だったのか、それをめぐる議論に、一定の、というより大いに、期待しているのである。 世の中の荒廃もこれと無縁ではなく、教育が相対化してしまっている。「つべこべ言わずにこうしろ」と確信をもって言える親がどれだけ残っているか。(また言うが、ここで教育とは学校だけでなく、家庭も社会も含めてのこと。主体的な知的活動たるeducationのことでないから、この文脈ではむしろ「しつけ」というべきか。) 子どもに「それやったら何か得になるの」と聞かれて、「ウ~ン」と詰まってしまう親や先生も少なくないだろう。損得勘定や商取引ではなく、「世の中こういうものなのだ」「人間はこう生きるのだ」という「押しつけ」が通用しない風潮になっているようだ。 これは天皇制とは直接関係がないかも知れないが、天皇制こそが日本社会の柱、日本的精神の中核だという考えの論者からすれば、こうした社会の乱れや価値観の混乱を是正するためにも、万世一系としての天皇制の維持存続は、少なくとも必要条件ではあるということになろう。 天皇制中心の社会観・日本人観は、私には、たとえ言葉で理解しても体に染み付いた精神文化としての感覚は理解できないと思う。あるいは、私が農村社会のさもない農家の出身で、せいぜい祖父が南方戦線で戦ったと聞いたくらい、あとは戦前と戦後を断絶する史観を教わったからそうなのか。私と同世代の人たちでも、戦前から大企業に勤めたり商売したり役人だったりという社会システムに主体的に関与した家系ならば、戦前から続く考え方やその批評など家庭内でも話題とされ、ある程度体で触れて「文化」として理解できるのかも知れない。このへんクドクド考え過ぎか。 われわれが長くはぐくんできた美俗、誰が何と言っても守るべきものは何か。私としては、昭和前期までの日本その辺をもう少し知りたい、と思っている。祖父母やその父母、祖父母たちの時代を知りたいという、ごく自然な発想だ。そして、その上で、現代の日本と日本人が、つまり個人として親として社会人としての私たちが失っているものを、もっと知りたい。 言い方を変えれば、「体を張っても守るべきもの」を自信を持って言えない情けなさを脱したい、という思いだ。また、同義だが別言すれば、「親として子どもに絶対的規準として何を示しうるか」とも。 もっと言い方を変えれば、俺はこのまま死ぬまで相対性の海を泳いで終わるのか。それとも不動の規準を身にまとえるか。徹底した価値相対主義を教わってきた気がするが、それで終わるのは淋しい。自身を持って、われわれはかくあるべし、と言いたい。その中身はなんだろう。 そのために、万世一系の天皇制に基づく社会システム・精神文化が日本の柱だったというのなら、そこを理解したい。しなければならない。でも、そうではないのかも知れない。論者はあまりに天皇制に多くを帰一させる嫌いがあるとは感じる。 いずれにしても、私の頭の中には、特定の史観であえて遮断されてしまって情報がないのが基本だ。東京裁判史観やそれへの反感という両極を乗り越えて、本当の日本の守るべき姿は何だというべきなのか、知りたい。 そんなわけで、とりあえず積極的に女帝や女系という問題自体を議論する意図はないけれど、以上のような意味で、大きな関心を持って議論を見守りたかったのだ。 冗漫になってしまいました。年が明けてしまう。最初に戻ります。 このような私の、漠然としながらも切迫感のある不安定感からすると、冒頭の24日の読売の解説記事は、とても残念に感じる。 読売の男系尊重の論陣には、もっと頑張って欲しかった。その主張に賛成するからというのではない。そのような日本と日本人の絶対的価値観は何かという議論を深めて欲しい、と思うからである。 読売は、過敏な個人情報保護の論調に異議を唱え、また改憲の世論をリードしようとするなど、戦後の歪んだ日本社会を正面から見据えて一定の発信力を発揮しようとしているように思う。その内容はさまざまな意見があろうけれど、伝統や社会の規律を重んじ、国民的に議論を呼び起こそうという姿勢には、ある種の期待を持つ人が、各界各層に少なからずいると思う。 だからこそ、読売のこの解説記事。アレレッと思わせるのだ。 アッサリ「大衆迎合」なのですか。