住基ネットを考える(その2)
〔住基ネットを考える(その1)から続く〕3 住基ネット裁判の評価(1)憲法上の論点 昨年の金沢地裁判決や先月の大阪高裁判決は、端的に言えば、 ○ 憲法13条はプライバシー権を保障 ○ プライバシー権として保障する内容は自己情報コントロール権を含む ○ 拒絶する住民の情報を接続するのは同条に反する行為で違憲 ○ 従って接続した情報を削除せよ これは、憲法判断に踏み込みながらも深刻な法令違憲を避け、適用違憲の手法をとったものと解される。 そもそも憲法判断が必要かどうかに関して、憲法が保障するプライバシー権の内容がまず問題となるが(古典的な to be let alone の権利のみならず、自己情報コントロール権まで認めるのか)、ここでは踏み込まない。実のところ憲法問題ではないから(下述)。(2)不当利用の危険性 実はこの問題は憲法論議と言うよりは、問題の所在はもっと低いレベルにあるのだ。要するところ不当利用の危険性をどこまで重視するか、に尽きる。危険を重視する人が憲法を持ち出すのだ。 ではその危険はいかほどか。 個人の氏名や住所が官署に知られていること自体は、さほど問題ではないだろう。それだけでも個人の生活を萎縮させるなどという極端な人は、出生届すら出さないだろう。 問題はオンライン結合や不当利用によって、目的外の使用がされる可能性があること、しかもその危険性が高いことだ、とされている。 住基ネット反対の方々は、不当利用されるだろう、あるいは、行政にその意図がなくともオンライン結合で情報は自在に流れてしまう、というのだろう。住基ネットの4情報自体は良いとしても、結合することでよりセンシティブな(機微にわたる)情報と結合し、あるいは安易な運用ミスで流出する。しかも、それによって現実に特定個人の権利利益が侵害されないとしても、その可能性が存在するだけで、国民としては安全に日常生活を送る上で萎縮を余儀なくされる、あるいは精神的苦痛を受ける、というのだろう。 個々人の取り方という意識の問題とも言えるが、それなら同意できる人だけ住基ネットに入れればいい、というのが論者の意見だ。実際に大阪高裁は「同意」の論理で、原告を勝たせた。(3)考慮すべきこと 住基ネットは、国民の利便性と行政の効率化が目的であろう。ネットワークである以上、一部の国民の情報が入っていないのでは、十全な効果を発揮しない。理想は列島に住む全員の情報が一律に入っていることだ。 従って、最後は、不当利用の危険性をどこまで重視するか、との均衡だ。(4)判決例の批判 ただ、私は不当利用の危険性をどこまで重視するかの点で住基ネットの是非を決めるべきだと述べたが(その判断は後述)、裁判所がこれを判断することには慎重たるべきと思う。踏み込みすぎては行けないと思う。 すなわち、昨年の金沢地裁判決や先月の大阪高裁判決は、結論が誤っていると思う。 誤解を恐れずに言うが、裁判所がテンポラリーな政治勢力や大衆感情に迎合しては、ならないのである。法的安定性(保守)に徹しよ、というのではない。もちろん一定の政治勢力に味方せよというのでもなく、政治や行政レベルで解決が期待される限りは、蛮勇を差し控えるべきである。裁判所の分際を弁えた冷静な判断こそが、裁判所の信頼を得るからである。 その点で大阪高裁の判決は、少なからず衝撃的だった。直後の箕面市長の上告断念判断と相まって、何か迎合判決のように思えたからだ。 逆に言うならば、大阪高裁の裁判官は、プライバシーの侵害の危険をヒシヒシと感じ、なおかつ政治(立法)や行政では効果的な対策がもはや期待できないと信じて、裁判所の英断が必要と考えたのであろう。わからないではない。 名古屋高裁金沢支部の控訴審判決も、憲法論としては、自己情報コントロール権をプライバシー権の一環として認めている。立法が不備で、あるいは行政が安易な情報管理をすることがあるから、憲法の威光をチラつかせたのだ。 もうちょっと実態的に言うと、私見だが、立法や行政実務上は情報を収集し管理する者が過誤をおかすとは言えない建前であるし、また現実問題としてミスを隠す体質もある。だから、憲法を持ち出して、立法の不備があっても憲法でちゃんと国民の権利は守りますよ、間接的に、行政はしっかりやりなさい、と言っているのだ。 つまり、そこまで行政のミスや不当利用の可能性が疑われているのだ。この意味を行政は強く受け止めなければならない。ミスや不当利用がほとんどないのなら、名高裁支部だって憲法を持ち出すまでもないことなのだ。4 今後の展望 かくいう私も、情報漏洩の危険は十分感じる。しかし、私自身はこう思う。住所や氏名などが流れても、仕方ない。問題は、割り切れるかどうか。私は割り切る。 私はオンライン結合だって、本当は必要だと思う。効率化を徹底するならば、結合しないことが非効率だからだ。オンライン結合しません、というのは、住基ネットを導入せんがための妥協だ。本当は堂々と効率化とコストダウンによる国民のメリットを主張し、もちろん漏洩や不当利用が無いため万策を講じるべきだ。 現実にうっかりした情報漏洩や、社会保険庁の集団のぞき見のような馬鹿な事があるから、批判に拍車をかける。当然だが、行政担当者は襟を正しに正してもらわないと困る。社会保険などは、住基ネットを拡充して結合すれば、もっと事務が楽になるはずだ。人員も整理できて行政改革にもなるはず。のぞき見などしている場合ではない。 つまりこの問題は、国民総管理、とか価値観の多様化とか、あるいは「みんなバラバラでそれで良い」、などというレベルの話とは全然違う。単に行政効率化の問題だったのだ。個人情報保護のムードに乗って体制批判のマトに祭り上げて、住基ネット反対を煽った一部勢力の責任も重い。 しかしそれでも、本当は漏洩の危険性を国民も覚悟しなければならない。ネットワークとは、本質的にそういうものだ。不特定の者が見ることを、本質的に前提としている。利便性や効率性だけを享受して、自分だけは見られたくないとか、自己選択に委ねるべきだ、という主張は社会生活の観点からは、誤っている。 現代に生きる我々は、収入も預貯金も学歴も、自分に関する情報は、役所なり企業なりでデータベース化されていると考えなければならない。私の情報だって、銀行、役所、勤務先、運輸局(自動車)、法務局(不動産)、NTT(電話名義)、楽天広場(ブログ)などにしっかり入っている。 中でも、住所、氏名などの情報はもともと公開されると言っても良い。学歴、成績、賞罰、犯罪歴、趣味、家族、資産、収入、納税額、などのセンシティブ情報とは要保護性が格段に異なる。どこに誰が何して住んでいるのか誰もが知っているような、地縁バリバリの社会を良しとする訳ではないけれども、住所氏名まで隠しに隠して生きていくべき、というほど私は未来人ではない。 小学校で先生に名前呼ばれて、個人情報だからと返事しない生徒がいると言う。これこそ未来人だ。だが、笑えない。行きすぎた個人情報保護感覚が社会をおかしくしている。 昔の国民総背番号制の論議の反省もあろうが、立法者と行政には正しい議論を提起して欲しい。行政コストの低減というメリットだ。そして、情報管理については対策を説明し、現実に徹底して欲しい。さらに、オンライン拡充についても正しい議論を進めて欲しい。IT社会における個人情報と社会生活についての国民的合意を形成しながら。■関連する過去の記事 ○個人情報とプライバシー(06年06月15日)