高野長英と兄弟たち
高野長英(1804-50)は、伊達一門伊達将監(留守家)に仕える後藤家に生まれた。母は留守家の侍医高野玄斎の妹美代(美也)である。長英には、異母兄で後藤実元(後藤家を継ぐ)、同母兄の湛斎、同母弟の慶蔵がいた。後藤家には男子が4人いたが、母の実家高野家には一人娘の千越(ちお)しかなく、外祖父の高野元端は早くから長英を玄斎の養嗣子とし、いずれは二歳下の千越と娶わせたいと考えていた。文久9年(1812)長英は9歳で父実慶が死去し、翌年高野家の養嗣子となる。母の美代も高野家に戻り、後藤姓の湛斎と慶蔵も、異母兄実元の継いだ後藤家よりも母の居る高野家に何かと面倒になる。文政3年(1820)、湛斎と17歳の長英は医学修行で江戸に向かう。途中、前沢で開業医をする叔父(母の弟)茂木左馬之助に挨拶したが、この後も、長英は左馬之助をワンクッションにして高野玄斎とやりとりすることが多い。湛斎は江戸で漢方を修得し、浅草材木町で川村右仲の代診を務め衣食住は心配がなかった。一方、長英は、養父玄斎とともに杉田玄白に学び、玄白の養子となっていた一関出身の杉田伯元の家塾に住み込めると思っていたが、通学しか認められず住むところもない。水沢出身の薬種商神崎屋に厄介になり、毎夜按摩をして生活費を稼いだ。長英は兄に会いに川村家を訪れているうちに、湛斎が弟の苦学ぶりを話したことから、右仲に川村家の居候を許される。しかし、蘭学への志から、若い長英は漢方医の家に居候することを辞退すると、これを知った右仲は、湛斎に長英との同居を命じた。やがて、長英は杉田塾を辞め、蘭方医でも内科を創唱する吉田長叔に住み込みとなり、ようやく蘭学に専念できるようになる。湛斎は、独立して江戸で開業し、水沢の医家坂野家への養子縁組が決まり、いずれは故郷で母美代を引き取って暮らすつもりだった。しかし、湛斎は重病にかかり、長英が長叔のもとを辞して兄を看病した。兄の診療は長英が代診した。長英の看病にもかかわらず、湛斎は文政6年5月20日江戸で死去。病名不明。末弟の慶蔵は、高野家が医学修行させる経済力がなく、後藤家も面倒を見なかったようだ。長英は天保元年(1830)長崎シーボルト塾から帰り江戸麹町で蘭学塾を開き診療をはじめた。翌年母を麹町の屋敷に迎えると、いつごろからか慶蔵も同居した。長英は、母や兄弟に強い愛着を持ちづつけた。それだけに従兄妹で許嫁でありながら見放された千越が哀れでならない。慶蔵は天保8年頃江戸で母と兄に見守られて死去。十数年後、母美代は水沢の実家で、長英の自刃を知る。■新人物往来社編『教科書が教えない歴史有名人の兄弟姉妹』新人物往来社、2008年(淡野史良執筆部分) から