広瀬川の名を考える
広瀬川の名前は、政宗が伊達家のかつての本拠である伊達郡の美しい川の面影を重ねて名づけたという考え方がある。伊達郡川俣町の人たちはそう信じて誇りに思っている、という。しかし事実は異なる。広瀬川という川の名は、川俣だけでなく全国各地にある。前橋市利根川の支流、奈良盆地の葛城川、鹿児島県出水川など。川の中流域に水が深くよどむ淵と、浅く速く流れる瀬が交互に現れることが多いが、各地の広瀬川はいずれも深い瀬があったことから起こったという。歴史的には正平6年(1351)、当時官軍に属した伊達、田村両氏が足利方探題吉良貞家と戦い、11月22日広瀬川の戦いに勝利したことが記録されている。また、鎌倉幕府の史書「吾妻鏡」の奥州合戦にも名取川と並んで広瀬川の名が出てくることから、少なくとも鎌倉以前に名づけられたのは間違いない。ところで、広瀬川はかつて上流では愛子川、郷六川、仙台付近では仙台川、大川、大橋川などとも呼ばれ、雅名として青葉川、水無瀬川ともいった。これが一般に広瀬川と広く用いられるようになったのは、明治以後と言われる。また、昭和30年の宮城町誕生(大沢村、広瀬村、新川村)まで存在した広瀬村は明治22年4月に誕生したが、それまで、熊ヶ根、作並、上愛子、下愛子、郷六の5村に分かれていた広瀬川右岸一帯を合併する際に、どれか一つの名を残すのでは収まらず、川の名を冠したのだという。冒頭の広瀬川政宗命名説は崩れたが、それでも伊達郡の広瀬川に政宗が深い愛着を持っていたと信じている人もいる。政宗は、岩出山から出る際に、居城候補地として、青葉山、榴ヶ岡、日和山(石巻市)、大年寺山の4つを考えていた。本当に望んだのは水利に恵まれた日和山とか、都市経営に利のある榴ヶ岡だったが、築城の許しを家康に求める際に第一候補は許されまいと考えて第一に青葉山を挙げたという話が伝えられている。しかし、伊達ゆかりの地をしのんだからこそ、同名の川が流れる青葉山を選んだのだ、というのだ。今のところ、この説にはっきりした根拠はない。■朝日新聞仙台支局編『宮城風土記1』(宝文堂、1984年)から■関連する過去の記事(上掲書から広瀬川に関して) 愛宕下の発電所(2013年11月25日) 鹿落旅館のこと(2013年11月24日)