日本三景の成立(その1)
長谷川成一「日本三景の成立と名所観の展開」(島尾、長谷川編『日本三景への誘い』清文堂出版、2007年)による。------------江戸時代には多くの人々が各地を旅行するようになり、旅案内や名所解説のための、名所記、図会、名所図などが制作されるようになる。名所を、日本三景や本朝十二景などに数え上げることも行われるようになる。日本三景の史料上の所見は、林鵞峰(春斎)(1618-80)が編纂した『日本国事跡考』に見える記事だろう。鵞峰は史書『本朝通鑑』の編纂で名高い。『日本国事跡考』は、家綱誕生の賀使として来日した朝鮮通信史の求めに応じて編纂したもの。寛永20年(1643)成立。松島、丹後天橋立、安芸厳島を「三処奇観」と規定している。いずれも白砂青松の景観である。それでは鵞峰は日本三景を実見した上で提言したのか。否であろう。彼の年譜や家譜から三景を訪れた形跡はない。父の林羅山は、「本朝地理志略」で天橋立を「一州之美景也」と形容しているが、訪れた事実は確認できない。当時の文人にとっては、実景をみるよりも、現実の景観をしのぐ詩的なイメージが重要だった。つまり、胸中にイメージを湧出させる景観として「三処奇観」が受け止められた。寛永20年は鵞峰25歳、父羅山も生存中であることを踏まえると、幕府官学の地位を固めつつあった林家が、簡便な国家要覧ともいえる『日本国事跡考』に「三処奇観」の文言を刻した意義は小さくない。これによって全国に散らばる林家門下の儒学者たちに、日本三景の概念や内容が定着する契機となったからである。三景と別の次元から、当時第一級の俳諧師、大淀三千風(1639-1707)は国内の名所を「本朝十二景」としてランク付けした。三千風の主張する十二景は次の通りで、世に知られた地であった。1 田子の浦(駿河) 2 松島(奥州) 3 箱崎(筑前) 4 橋立(丹後)5 若浦(紀伊) 6 鳰海(近江) 7 厳島(安芸) 8 蚶潟(象潟)(出羽)9 朝熊(伊勢) 10 松江(出雲) 11 明石(播磨) 12 金沢(武蔵)田子の浦はおそらく富士山を組み込んだ眺望を想定していると考えられる。17世紀後半の時点では、日本三景としての松島、天橋立、厳島は必ずしも確定していなかったようだ。三千風のランキングは根拠を示されていないため、彼の趣向なのか当時の人気度なのかわからない。しかし、実際に国内を行脚した三千風の自負も読み取ることができよう。このように当時の三景論は固定的ではなかった。ちなみに、十二景論は三千風ひとりが唱えたのではなく、18世紀後半諸国を旅行した京都の豪商百井塘雨の紀行文『笈埃随筆』にも、ランク付けはないが三千風と同じ地名を列記している。日本三景が世間に定着するのは元禄期ころと推察される。貝原益軒は元禄2年(1689)に近畿地方の旅先での見聞を記した「己巳紀行」で、天橋立を批評する際に、日本三景の一つとするのも宜なり、と明確に記している。もっとも、紀伊方面に出かけた際には、和歌の浦の景色に感動し、松島はいまだ見ていないが日本三景をしのぐと絶賛している。天明2年(1782)成立の天野信景(さだかげ)「塩尻」では、天橋立、陸奥松島、出羽象潟を三勝景とし、また同書の別の箇所では、天橋立、松島、伊勢の二見を三勝景としている。18世紀を通じて識者による三景の中身に揺れが認められるものの、17世紀前半に成立した日本三景の概念は概ね固定化していったようだ。