国保発祥の地 山形県戸沢村
五月雨を集めた最上川の急流が、最上峡を割いて進むのが、戸沢村だ。川に沿って陸羽西線と鶴岡街道(国道47号)が町を南北に分ける形だが、現在のような国道の開削は難工事だったろう。かの芭蕉も船下りをしたように、舟運がさかんで、中心的な集落である古口地区には新庄藩の舟番所が置かれた。古口集落から県道を南に5kmほど、山間の角川地区にある農村環境改善センターに、国保発祥の地の碑がある。戸沢村サイトの説明だ。昭和33年に国保法施行20周年を記念して、記念碑を建立。相扶共済の文字とともに、経緯を記している。医師のいない角川村では、昭和11年に角川村保険組合を発足。村立診療所の中におかれ、村の人々は安心して医療を受けられるようになった。昭和13年7月には、施行された国民健康保険法に基づき、国民健康保険組合に改め、全国に先駆けて設立認可第1号となった。この保険組合というのは、所得に応じて村民が保険料を毎月支払い、診察代は2割の負担、薬代は5割の負担で医療を受けられる仕組みのようだ。相互扶助の実践はもちろんだが、無医村に診療所を設けるための側面もあったのではないだろうか。保険料の未納や運営問題が大きくクローズアップされてきているが、急病の子どもや老親を抱えながら医者に診せることすらできなかった時代、医療を少しでも身近なものにしようと仕組みを懸命に考えた時代が、つい最近だったことを忘れてはなるまい。■関連する過去の記事 大井沢の大栗(地域医療と志田周子)(2010年4月13日)(余談)この碑を知ったのは、津村秀介『最上峡殺人事件』の中の記述だ。真相を探るルポライターが、陸羽西線の古口駅に降り立ち、第一の殺人現場に近い最上川の乗船場の駐車場の先に、「べにばな国体」の看板と並んで、国保発祥の地の大きな看板を見上げて、何でここが、と呟いて鶴岡街道を歩いた、とある。もう20年以上前の発表作なので、ちょうど92年の山形国体が意識されたのだろうが、私は、したがって国保発祥の地の碑も、国道沿いにあるものと思ったが、調べると上記のように角川地区にある。おそらく、国道47号沿いに大きな案内看板があるのだろう。