資福寺跡を訪ねる(高畠町)
念願の資福寺跡を訪ねた。よく晴れた冬の日。入り口の民家の方に御挨拶したら、パンフレットをいただいた。この先の杉の木のところが寺の跡。寺が移るときに、この家(指さして教えてくれた)に墓守を託し、そのかわり寺の土地を畑にして良いとされた、と。山々に囲まれた盆地まほろばの里に、伊達家の歴史がある。以下、このパンフ(高畠町観光協会)による勉強です。建久3年(1192)鎌倉幕府誕生とともに置賜の地は長井氏に支配されていたが、天授6年(1380)伊達家8代宗遠が長井氏を滅ぼし、以降、14代稙宗に至る162年間、屋代(高畑)が伊達家支配の拠点とされた。屋代(高畑)は、承安年間に藤原秀衛のいとこ樋瓜五郎季衡の築城と伝えられ、形状が釣鐘に似ているため別名を鐘ヶ城と呼ばれた。天授6年(1380)長井氏を滅ぼした8代宗遠と9代政宗が置賜の本拠として修築したと伝えられる。宗遠は、大崎、信夫、刈田のほか、柴田、伊具を支配し、また、足利政権とも交流を図った。伊達氏が本拠地を米沢城(長井氏の居城)ではなく高畠を選んだのは、赤館城(伊達氏の居城)に近く、二井宿峠を控えた要害の地であったことから。9代政宗(儀山)は、柴田、名取、宮城などに進出。これにより伊達氏の領国範囲がほぼ決まる。屋代(高畑)が名実ともに置賜の中心城になる。また、政宗は応永4年(1397)に上洛し足利義満に謁見。儀山政宗は文武両道に優れた。墓は野手倉と資福寺跡にある。14代稙宗の時代にはさらに領国体制が進展、伊達家悲願の陸奥国守護職の地位を得る。また、塵介集(領国をまとめるための法)、棟役日記(百姓屋敷への徴税規則)、御段銭古帳(田畑への徴税規則)などを成立。伊達家の基盤を固める。しかし15代晴宗と内乱(天文の乱)を招き家督を渡す結果に。15代晴宗が天文17年(1548)米沢城に移る。16代輝宗は思慮深い人柄で、働き盛りのうちに家督を政宗に譲る。天正13年(1585)、畠山義継に突然拉致され不慮の死を遂げる。資福寺跡の夏刈の地に、輝宗と重臣遠藤山城守基信を葬った五重塔がある。資福寺の住職であった虎哉和尚は、輝宗から政宗の師匠として招かれた。資福寺は、弘安年中に長井氏3代時秀西規が、領内東西交流の中心である夏刈の地に、鎌倉建長寺の僧紹規紹を招いて建てた。この地に伊達氏が夏刈城を築き、資福寺を帰依寺、学問寺として保護した。現在の資福寺は、政宗の移封に伴い、岩出山を経て仙台市に移動。仙台城の鬼門を守る北山五山の一つ、臨済宗妙心寺派、資福禅寺として多くの参拝客で賑わう。独眼竜で知られる17代政宗(貞山)は、母義姫が亀岡文殊堂の長海法師を通じて、湯殿山に出向き護摩を行い誕生したとの伝説が残される。亀岡文殊堂は日本三文殊に数えられ、大同2年(807)徳一上人によって開かれた。願望成就、智恵の文殊として受験シーズンに全国から多くの参拝客で賑わう。政宗は虎哉和尚のもとで成長し、18歳で家督を継ぐ。政宗時代の伊達家の勢力は、稙宗、晴宗をはるかに超えて南奥州の統一に向かう。天正19年(1591)秀吉の命令により置賜の地を後にし、岩出山に移封される。あるときはあるにまかせて疎けれどなき跡を訪ふ草枕かな貞山政宗