東北という呼称の初現 ー 「東北」の形成
東北という地域名のが文字の上で初現するのは、慶応4年(1868)7月の薩長政府による建議書の表題である。以下、岩本由輝先生の著作から。■岩本由輝『東北開発120年』人間科学叢書22、刀水書房、1994年慶応4年(1868)1月仙台藩に会津藩征討の命が下る。藩主伊達慶邦は猶予を懇請。3月に奥羽鎮撫総督軍が松島湾に到着し、総督府は仙台に置かれる。仙台藩と米沢藩は会津救済の周旋を決定し、閏4月4日、白石列藩会議を招請、二度にわたる会議で会津藩と鶴岡藩に対する処分の寛典を求めて嘆願することになった。最初の閏4月11日の会議の結果による会津藩救済嘆願は、17日奥州鎮撫総督九條道孝により却下される。20日仙台藩士による世良修蔵暗殺。22日、24藩による第2回会議で鶴岡(庄内)藩寛典処分嘆願書を調印。28日には孤立状態の九條を佐賀藩兵と小倉藩兵が救出。29日は、仙台に24藩に天童藩(織田氏)福山藩(松前氏)を加え、軍事同盟の性格を打ち出した盟約書に署名する(奥羽列藩同盟)。5月3日、この盟約に長岡藩(牧野氏)など北越6藩が加わり、奥羽越列藩同盟となる。しかし、江戸城は4月11日に開城し、列藩同盟も決して一枚岩ではなかった。隣藩の誼で義理で参加、あるいは会津や鶴岡の軍事力を恐れて参加した藩もあった。盟主の仙台藩や米沢藩もまったく腰が据わっていなかった。5月1日には白河城が西軍に奪われる。仙台藩は九條総督を人質にとる気概もなく、九條に秋田に逃げられてしまう(5月18日総督府は秋田に移る)。19日長岡城が落ちる。26日同盟軍は白河城奪還に失敗。法親王輪王寺宮公現(北白川宮能久)が28日会津に入ったことは同盟軍を活気づけたが、7月、九條の仙台帰還を求めて秋田藩に交渉に赴いた仙台藩正使ら11人が斬首さらし首となる(7月4日秋田藩同盟離脱)。この間、6月に、棚倉、泉、湯長谷が落城。7月には亀田、本荘、矢島、新庄、弘前の各藩が脱盟。秋田藩は鶴岡藩を攻めるが、軍備にすぐれた鶴岡藩の反攻はすさまじく秋田領大曲まで占領した。太平洋岸では、西軍が7月平城を攻略、7月中に三春藩が脱落、守山藩が降伏し、二本松城が陥落。北越では7月に同盟軍が一度長岡城を奪回するが、新発田藩が西軍に内応し再び長岡城は西軍の手に落ちる。7月17日、江戸が東京と改められ、薩長政府の参与木戸孝允は、戦勝後の同盟諸藩に対する処置に関する建議書を提出している。その表題が、東北諸県儀見込書である。これが東北という地域名の文字の上での初現であり、また、県というのは閏4月21日に出された府藩県三治の制にもとづき占領地など政府直轄地に付される予定の行政単位の呼称であった。東北とは東夷北狄を約めたもので、薩長政府の高官が夷狄の地となぞらえたことの意味は重要で、西戎南蛮を意味する西南地方という地域名の設定は薩長政府からは当然のこととして行われなかった。東北地方という地域名は、以前の、蝦夷、みちのく、陸奥などとともに他から与えられたものであり、決してこの地域に住む人々の発想から生まれたものではない。後の西南の役の西南という表現も同巧であり、政府が敗者に押し付けたものだろう。8月1日、西軍は新潟を占領。6日は中村藩が降伏、離脱。20日にはいよいよ会津進撃を開始し、23日会津城下に入る(白虎隊の悲劇)。26日榎本武揚率いる艦隊が仙台湾に入るが、時遅く、9月4日には盟主米沢藩降伏。8日明治に改元。13日仙台藩降伏。22日会津落城、松平容保降伏。24日盛岡藩が降伏し、9月26日秋田藩内で鶴岡藩が局地的優勢を保ったまま降伏。これにより奥羽での戊辰戦争は終焉。ここで、31藩のうち、脱盟した藩(秋田、本荘、矢島、新庄、弘前、三春、新発田、中村)を除いて賊軍となった。また、戊辰で西軍の敵として最も睨まれた会津と鶴岡の敗戦の仕方は対照的だ。徹底抗戦の末敗れた会津藩では、落城後の藩主松平容保と嫡子喜徳が300名の岡山藩兵によって江戸に連行される状況を目撃した英国公使館付の医師ウィリアム・ウィルスは、「出発を見送りに集まったものは十数名もいなかった」と意外の感を示した上で、「いたるところで、人々は冷淡な無関心をよそおい、すぐそばで働いている農夫さえも往年の誉れ高い会津侯の出国を振り返ろうともしない。一般的な世評としては、会津侯が起こさずもがなの残忍な戦争を惹起した上、敗北で切腹もしなかったため尊敬を受ける資格は喪失したというのであった。」と監察している。外国人ゆえの冷静さともいえるが、会津農民の冷静さに注目したい。今日戊辰戦争を語る熱っぽさは後世のつくりごとに過ぎないのだ。鶴岡藩は、薩摩藩の要路とりわけ西郷隆盛に取り入り、維新政府の繰り出す諸政策を骨抜きにし、みずからの封建的特権を守るために画策するふてぶてしさを示すことになる。戊辰120年のいま〔おだずま注、1988年のこと〕、当時の現実を無視した敗者の正義を美化する心情的言説が各地に横行したので、客観的な当時の経過を評価をあるがままに記した。ところで、明治元年(1868)12月7日、同盟に加わった諸藩に対し処分が行われるが、維新政府参与木戸孝允の手記には、「東北諸県御処置」の文字が見える。木戸があえて東北といおうとしていることが、7月頃の建議書とともにはっきりする。処分の内容は、寝返った幾つかの藩に賞典禄を与えたのを除けば、いずれも削封された。削封地は閏4月の府藩県三治の制にもとづき政府直轄地の県とされ、知事が派遣されて、残りは藩として藩主が置かれたが、明治2年6月17日の版籍奉還後は藩主も藩知事となり、明治4年7月14日の廃藩置県を迎える。