長町に操車場があったころ
長町の往年の姿を求めて、是非行きたかった企画展。地底の森ミュージアムを訪れました。■長町に操車場があったころ(第103回企画展。2023.4.21-7.17 協力:東北福祉大学地域創生推進センター『鉄道交流ステーション』資料係)■関連する過去の記事 仙台駅の位置について(その10)新幹線長町駅?(2021年11月14日) 往年の風景が一変の長町(2020年1月1日) 長町の蛸薬師堂(2015年2月11日) 蛸薬師(長町4丁目)とイボのこと(2013年2月10日) ガソリンカーと仙台(2012年11月5日) 東北福祉大の鉄道交流ステーション(2010年12月24日)〔他にも鉄道整備などに関する記事あります。記事リストをご覧ください〕以下は、展示内容から編集長が勉強した内容です。1.はじめに長町には大正から平成まで広大な貨物列車の操車場があった。長町操車場は、貨物列車輸送が盛んだった時期には、東北最大級とも言われた。24時間休まず動き続けた操車場(ヤード)には、大きな機関車庫や転車台もあった。2.長町の〈道〉と〈駅〉古くから長町周辺には、東北を南北に縦断し、東北と他地域を結びつける重要な道が築かれていた。古代には東山道(東北と畿内)、中世には奥大道(奥州と鎌倉)が走り、江戸時代の奥州街道(奥州と江戸)に継承される。現在の国道4号線、東北本線、東北新幹線へとつながっている。また、長町には、JRや市営地下鉄の他にも駅があった。大正から昭和にかけて秋保から石材を運んだり、温泉に向かう人々の足となった秋保石材軌道/秋保電気鉄道の始発駅。また昭和51年まで仙台市電の駅がつくられていた。3.長町駅・長町操車場の歴史(概説)長町に停車場ができたのは、明治27年(1894)で、急造りの臨時駅だった。日本鉄道が東北本線を明治20年(1887)に上野から塩釜まで開通したが、長町には駅がなかった。明治27年日清戦争の勃発で、政府と日本鉄道が契約を結び、兵員や軍馬などの軍用貨物輸送のため、当時の茂ケ崎村長町大道(だいどう)東北(とうほく)に臨時停車場がつくられた。東北各地から第二師団に集められた多くの兵隊が広島に向けて送り出された。その軍用駅跡地に民間用の駅として新設されたのが長町駅で、明治29年(1896)2月に営業を開始。当初は小駅だったが、大戦景気を背景に産業が発展し貨物輸送が増加すると、仙台駅が手狭になり駅を広げることも困難だったため、貨物輸送部門を長町が引き受けることになり、駅が拡張された。駅舎、仕訳線、中継(なかつぎ)貨物線などが整えられ、転車台も新設されて、大正14年(1925)立派な操車場が完成し、翌年に長町機関庫が誕生した。一方、大正3年(1914)には長町駅に連絡する秋保石材軌道(後の秋保電気鉄道)も開業。さらに昭和11年(1936)には仙台市電に長町線が新設され、長町は仙台南部の交通の要所となる。戦後は、北海道の開発が進み貨物輸送量が著しく増加したが、東北本線には中小規模の操車場しかなく非効率だったので、東北本線と常磐線の分岐点にあり、新鶴見・大宮・田端・青森の各操車場に直結する長町に改良の主力を注ぐことになった。この国鉄にとって戦後初の本格的な改良工事は、昭和30年(1955)11月に完成すると、長町は東北本線有数の大操車場となり、東北の物流の中心的役割を果たすようになった。その後、昭和36年(1961)宮城野貨物線及び宮城野駅が開業すると、長町駅で行われていた貨物取扱いは次第に宮城野駅に移り、さらにコンテナ輸送の発展でヤード方式が不要となったため、昭和61年(1986)貨物駅としての役割を終えることになった。操車場等の跡地は、土地区画整理事業により「あすと長町」に生まれ変わり、東北本線高架化にあわせ平成18年には新駅舎を旧駅舎の北側に移設・高架化し、地下鉄長町駅と近接した。かつての長町駅舎があった場所は、東側の「あすと長町」と西側の旧来からある長町市街地とを結ぶ市道となっている。4.蒸気機関車時代の長町駅大正15年(1926)、長町機関庫が貨物専用機関庫として仙台機関庫から職員263名を引き連れて分離、誕生。配置された機関車は27両だった。日本初の本格的な国産機関車のテンダー式蒸気機関車9600形(愛称キューロク)14両を中心に、明治生まれのC1型タンク機関車ながら引き出し性能や制動力に優れた2120形(B6形)7両、鉄道院製造の国産テンダー式蒸気機関車6700形7両という内訳だった。そして、操車場にはそれらを格納する東北一を誇る大きな扇形庫(機関車庫)を備えていた。昭和初年の恐慌を脱し景気が好転すると貨物輸送量が回復したため、鉄道省は新型の貨物用機関車の開発を行い、昭和11年からD51形(愛称デゴイチ)を製造。翌12年には長町にも配置された。D51形は戦時形として大量生産され、その数1,115両で国鉄蒸気機関車の代名詞と言われる。この頃長町には、上記4形式のほかに、3200形、8620形、C12形、D50形など。それとは別にガソリンカー3台が配置され、塩釜港-長町間を旅客運行し、途中には三百人町や行人塚(ぎょうにんづか)の駅があった。さらに救援用の操重車ソ35形も配置されていた。戦後には、東北線の貨物輸送量の増大に対応するため、東北線と常磐線の分岐に位置する長町に大きな操車場を設けることになり、昭和25年から30年にかけて、抱込(だきこみ)式ヤードへの大改良工事が行われた。総敷地10万5千坪、線路延長18マイルに拡張され、取扱能力2,500車/日におよぶ大操車場になった。昭和29年には長町こ線橋が開通。また、東海道・山陽本線で走っていて路線の電化で休車となっていたD62形が、東北本線長町-盛岡間で主に貨物列車の牽引車として昭和41年まで活躍した。(編集長追記)昭和27年の空撮写真が展示されている。SL扇形庫を備えた壮大な操車場全景がみえる。長町駅の向かいに秋保電鉄長町駅や仙台市電の長町電停がある。操車場の周囲は、長町市街地と、線路東側の北日本電線や日本通運倉庫と思われる建物があるが、周囲は大部分が田畑だが、西方には東北特殊鋼(現在のザ・モール仙台長町)、東南方面には東北金属工業が目立つ。5.電気機関車時代の長町駅昭和30年代には、国鉄は仙山線の交流電化試験の成功で、動力近代化を掲げて地方路線に電化・複線化を延ばし、駅設備等の改良を進めた。貨物でも輸送設備やサービスの近代化を図るようになる。速達性の向上、到達日時の明確化などが改善され、長町で最初に導入された台車振替検査方式などの合理化が進み、コンテナによる輸送も具体化されていった。この頃コンピュータも導入されている。昭和36年6月、輸送量過多の東北本線の貨物列車をバイパスルートで分離するため、長町-東仙台間に約7kmの貨物別線を建設し、宮城野駅を開業、仙台駅の貨物取扱業務の一部を移管した。同年10月、仙台-福島間が電化されると福島機関区に交流電気機関車(EL)のED71形が配置され、仙台以南での乗務が始まる。さらに昭和40年10月からは仙台-盛岡間電化完成で、仙台以北でEL運転。続いて昭和42年には常磐線全線電化で各線でEL運転が始まった。昭和42年8月には、ED75形交流電気機関車(ナナゴ)が27両配置された。ED75形は、国鉄が改良を重ねた交流電気機関車の標準機として、常磐線と東北本線向けに開発した車両で、シリコン整流方式を用いた最高傑作と言われる。総数302両作られ、長町機関区に多く配置された(昭和59年時で79両)。岩手国体(昭和45年)や全国植樹祭(昭和49年)のお召列車牽引機としても活躍。昭和43年9月にはEL基地が、予算総額4億9千万円を投じて完成。10月の白紙ダイヤ改正を迎えた。これは国鉄がヨンサントウと呼んだ大改正で、東北の鉄道にとってはやっと近代化に追いついた出来事だった。しかし、それによってSLは一部の入換機を除き全廃された。(編集長追記)昭和53年の空撮写真では、新造の立派な電気機関車(EL)庫がみえる。また、長町駅から南方に、長町材修場が長町レールセンターに改称されたとの説明。新幹線高架工事が進んでおり、秋保電鉄の駅と車庫はバスターミナルになった。なお、この頃には東北特殊鋼の周辺部にだいぶ住宅が建っている。6.現在の長町へ国鉄分割民営化を前に、長町で行われていたヤード方式の貨物輸送は廃止され、コンテナ列車による直行輸送に変わり、東北の物流の拠点は宮城野駅(現・仙台貨物ターミナル駅)に移っていった。仙台市は国鉄清算事業団(現・JRTT鉄道・運輸機構)から長町操車場跡を得ると、区画整理事業に着手した。その後、長町機関区は平成11年8月に閉業。線路が撤去されると、仙台市教育委員会による長町駅東遺跡等の発掘調査が行われた。平成18年9月には線路高架化工事が完成。3代目の長町駅が開業。また、長年親しまれた長町こ線橋は役目を終えて供用終了。翌19年には太子堂駅が開業した。7.長町操車場の歩み(年表風)1887年(明治20)12月15日 日本初の私鉄日本鉄道株式会社により、福島-仙台-塩釜間開通1891年(明治24) 長町の地元住民を中心に長町駅設置運動が活発化する1894年(明治27)10月 日清戦争の影響による政府からの要請を受けて、兵員軍馬等の軍用貨物の輸送を行うため、茂ケ崎村長町大道東北に臨時停車場を新設。駅舎の形態はなく急造りのホームだった。1896年(明治29)2月2日 日本鉄道株式会社により長町駅が創設され、一般運輸営業始まる(初代駅舎)。1914年(大正3) 秋保石材軌道が開業。1918年(大正7) 長町操車場を設置するための用地買収が始まる。1919年(大正8)5月 鉄道院官制改正により仙台鉄道管理局が創設される(翌年鉄道省仙台鉄道局に改称)。1922年(大正11)夏 名取郡長町大道西台畑の沼沢地を埋め立て、長町操車場の第一期工事が始まる。1923年(大正12)9月 岩沼-仙台間が複線化する。岩沼の鵜ヶ崎本丸跡を崩した土を運び込み、長町操車場の構内の沼沢地を埋め立てる。同年12月 長町駅二代目駅舎などが竣工される。1925年(大正14)6月11日 東北随一の操車作業駅として長町操車場が完成。操業開始する。敷地面積約34万m3、貨物列車到着線出発線各4線、仕訳線群(上り10線、下り14線)、取扱車数は発着中継車1,330車/日。1926年(大正15)3月15日 仙台機関庫より職員263名、27両の蒸気機関車をもって長町機関庫が分離し、貨物専用機関庫となる。1936年(昭和11)9月 長町機関庫から長町機関区に名称が変更される。1937年(昭和12) 長町機関区にD51形蒸気機関車が配置される。他にもガソリンカーが若干配置され、塩釜港-長町間を運転。三百人町、行人塚停留所などがあった。1947年(昭和22)6月 長町機関区に救援用操重車ソ35形が配置される。1950年(昭和25)10月 長町操車場抱込式ヤードへの改良工事に着手。1954年(昭和29)12月20日 長町こ線橋が開通する。1955年(昭和30)11月 長町操車場の改良工事が完成する。線路増設12.3km、移設17km、分岐器増設35組、同移転75組、線路切換93回に及び、取扱車数は2,500車/日となる。1956年(昭和31)5月 国鉄が貨物設備近代化委員会を設置し、貨物輸送の近代化に着手。1961年(昭和36)5月 秋保電気鉄道廃止。同年6月1日 宮城野貨物線・仙台市場線開通と同時に、仙台駅の貨物取扱業務の一部を移管し、宮城野駅が開業する。同年10月 仙台以南で電気機関車(ED71形、福島機関区配置)による乗務開始。ディーゼル機関車(DD13形が仙台及び宮城野駅の入換に使われる。1963年(昭和38)3月 長町機関区に仙鉄初の鉄筋コンクリート2階建冷暖房完備の乗務員休養室が新設。1965年(昭和40)10月 仙台-盛岡の電化が完成。電気機関車(EL)基地として長町機関区と仙台運転所が統合。仙台以北でELの運転を開始する。長町構内の一部入換をディーゼル機関車(DL)化する。1966年(昭和41)3月 仙台以南完全電化により白石機関車駐泊所が廃止。SL修繕が郡山工場に移管される。1967年(昭和42)8月 常磐線完全電化。長町機関区にED75形式が27両配置される(10月運転開始)。1968年(昭和43)9月 長町操車場にEL基地が完成する。同年10月 白紙ダイヤ改正(ヨンサントウ)でSLが全廃となる。1970年(昭和45)10月 ELの一人乗務実施。第25回岩手国体のお召列車に長町機関区のED75形式120号が充当される。1971年(昭和46)12月 長町機関区でEL台車振替検査方式を他区に先駆け実施。1972年(昭和47)3月 長町操車場の機関車庫(DL庫、旧SL庫)が老朽化により一部撤去一部改修される。1973年(昭和48)5月 長町機関区のEL検査総合試験装置をコンピュータ化。1974年(昭和49)5月 第25回全国植樹祭(岩手)のお召列車に長町機関区のED75形式120号が充当される。1976年(昭和51)3月 長町機関区開区50周年。この頃の車両配置は、ED75-67両、DE10-7両、DD13両、操重車-1、救援車-1、付随車-1。同年4月1日 仙台市電が廃止される。1984年(昭和59)2月 操車場(ヤード)方式の貨物輸送が廃止される。長町機関区は存続。1987年(昭和62)3月 仙台運転所宮城野派出が長町機関区へ移管される。同年4月 国鉄分割民営化。日本貨物鉄道株式会社(JR貨物)長町機関区となる。1996年(平成8)6月 長町駅開業100周年式典1998年(平成10)3月 一ノ関機関区が長町機関区へ移管される。1999(平成11)年8月 土地区画整理事業により長町機関区が廃止。仙台機関区(宮城野区燕沢)が発足、移転。7月27日に長町機関区主催のお別れ会開催、8月1日に閉業。2000年(平成12)3月 長町での機関車入換が完全に終了。同年4月 仙台機関区が東仙台信号場駅と統合し、仙台総合鉄道部が発足する。同年秋頃 旧長町操車場の設備撤去作業が始まる。2001年(平成13) 仙台市あすと長町土地区画整理事業のため、長町駅東遺跡の発掘調査が始まる。長町駅の高架工事が始まる。2006年(平成18)9月18日 東北本線高架化工事が完成する。長町駅三代目駅舎が移転、開業。同年12月3日 長町こ線橋の供用が終了し、お別れ式が開催される。2007年(平成19)3月18日 太子堂駅が開業する。以上です。東北や日本の近代化の足跡と、今につながる地域の歴史を、ゆっくりと考えることができて大変良かったです。企画展のあと、地底の森ミュージアムの外周の散策路も良かった。リフレッシュになりました。なお、編集長が気にしていた(上記過去記事)、昭和52年にできたとされる「地下自由通路」については企画展での言及はありませんでした。