亘理町を知る(地域区分、大字など)
亘理郡亘理町の名は郡名に由来すると思うが、合併と大字表記の取扱い状況はどうだろうか。また、町内のエリア区分はどうか。地名に着目しながら理解を深めよう。1 歴史と「わたり」の名 郷土資料館でもらった『亘理町文化財マップ:わたりの歴史巡り』(亘理町教育委員会、2023年3月)をもとに。 町内には100か所近い遺跡があり古くから人が住んでいた。わたりの名は、川を渡るが由来と考えられている。奈良時代には朝廷の政治圏に入り海道筋の要衝地とされた。平安時代には郡衙が置かれた。三十三間堂官衙遺跡(国指定史跡、逢隈駅の西側)。 郡衙が役目を終えたころに登場したのが亘理権大夫藤原清経(子が藤原清衡)。文治5年奥州合戦で奥州藤原氏が滅ぼされると、戦いで活躍した千葉常胤の三男武石胤盛が亘理郡を拝領。武石氏はのち亘理氏を名乗る。天正19年(1591)伊達政宗の命により亘理氏は涌谷へ移り、片倉景綱が亘理を治めるが、さらに慶長7年(1602)景綱が白石に移され、伊達成実が亘理領主となる。成実は政宗の右腕として特に戦場で活躍し、政宗、忠宗と二代にわたり藩主を補佐。また、町場の整備や新田開発を行い現在の亘理の基礎を築いた。その後、亘理伊達家の城下町として発展していった。 明治3年亘理領主14代伊達邦成は多くの家臣と北海道に移住、現在の伊達市(姉妹都市)に発展した。2 地域の概要(エリア区分) 上記パンフレットによると、町内は亘理、吉田、荒浜、逢隈の4エリアとして紹介されている。 町の行政組織では、荒浜、逢隈、吉田、亘理に4つの地区交流センター(旧各支所)が置かれていることからも、この4つのエリア区分が定着していると思われる。・亘理エリア 城下町の風情が残る町並み(上記パンフの表現。以下同じ) =(主な施設等)亘理駅、悠里館、伊達成実霊屋、亘理領主伊達氏歴代墓所、称名寺のシイノキ・吉田エリア 山裾に広がる太古のくらし =浜吉田駅、大塚古墳、慶月院(原田甲斐の母)の墓・荒浜エリア 阿武隈川と太平洋を繋ぐ港町 =鳥の海、湊神社、御城米蔵跡、河村瑞賢滞在地跡・逢隈エリア 由緒ある歴史を受け継ぐ里 =三十三間堂官衙遺跡、安福河伯神社、毘沙門天木像(蕨薬師堂)、義民北原金平顕彰碑(中泉八幡神社) 4つの地区交流センターの所管区域は、「亘理町行政連絡区設置並びに区長選任に関する規則」に定められている。概ね次の通りだ。 ・亘理地区 31行政区 =(大字のない)字○○、逢隈鹿島、逢隈神宮寺、逢隈高屋のなかの小字(その一部などの表記も多い) ・吉田地区 16行政区 =吉田、長瀞 ・荒浜地区 6行政区 =荒浜、逢隈高屋のなかの小字 ・逢隈地区 15行政区 =逢隈上郡、逢隈下郡、逢隈小山、逢隈田沢、逢隈中泉、逢隈牛袋、逢隈十文字、逢隈榎袋、逢隈鷺屋、逢隈蕨 なお、逢隈地区交流センター管内には、「逢隈(逢隈○○ではない)字蕨」(蕨行政区)と「逢隈字郡」(下郡行政区、早川行政区)があるようだ。3 大字等の表記(1) 現状 「宮城県亘理郡亘理町」の後に続く地名の表記をまとめてみる。 いわゆる大字と思われるのが、荒浜、長瀞、吉田、逢隈○○(逢隈中泉など13地名)である。ただし、「大字何々」とは表記しない(cf.蔵王町の場合)。また、大字地名がなく、「亘理町」の後に小字名が続く場合は数多いが、おそらく旧亘理町(明治の小堤村)エリアが昭和の合併の際に表記上大字を省略する(字○○のように「字」は表示する)こととしたためだろう。大字を表示しないのは、旧亘理町エリア以外でもあるが(例:字苺里←以前は吉田字某だったろう)、新たに地名をつける際に大字の表記を省略したと思われる。(表記例) 町役場 亘理町字悠里1番地 吉田地区交流センター 亘理町吉田字大塚185番地 逢隈地区交流センター 亘理町逢隈田沢字鈴木堀6番地8 荒浜地区交流センター 亘理町荒浜字中野33番地■関連する過去の記事(大字、小字などの表記方法について) 蔵王町を知る(その1 永野と宮の謎)(2024年01月18日) 市町村合併と住所の表記(07年8月25日)(2)合併の際の経緯 『亘理町史 現代編』(亘理町史編纂委員会編、亘理町発行、平成20年3月)を読んでみた。 昭和30年2月1日に、亘理町(まち)、荒浜町、吉田村、逢隈村の2町2村が合併し、新たな亘理町(ちょう)が発足。県の2度にわたる合併計画試案(昭和28年、29年)はいずれも亘理郡を北4町村、南2村で合併するもので、これに従った。 当時の人口は、亘理町(まち)7,296人 荒浜町5,845人、吉田村6,554人 逢隈村9,094人で合計28,789人だった。 合併建設計画とは別に、17項目の合併条件事項があり、昭和30年1月18日に関係町村長が連署した。そのうち、第13として「字名について」。「旧町村名はつけない。ただし、荒浜地区及び逢隈地区は新町名の次に旧町村名をつける」とされた。また、第17として「支所の名称」は、荒浜支所、吉田支所、逢隈支所の3つ。 念のため、上記資料より古い『亘理町史 下巻』(亘理町史編纂委員会編、亘理町発行、昭和52年3月31日)を確認したが、合併に際する字名の取り扱いについては、合併条件事項を紹介しており同様の内容だ。 上記のように、昭和の合併で、新町名の「亘理町」のあとに、荒浜地区と逢隈地区で旧町村名をつけるとされた。上記(1)の現状に照らしてみると、まず逢隈地区では「亘理町(大字)田沢字鈴木堀...」としなかったのは、逢隈村を構成する13の大字(これらは明治町村制の前の村である。5(1)参照)の地域的一体感を表示で残すべきとの声があったのだろう。他方で、「亘理町逢隈大字田沢字鈴木堀...」も冗長なので、「逢隈」の2語を冠する13の大字名にした、ということだろう。 次に、荒浜地区は現在も「荒浜字○○」が主流だ。逢隈地区と違うのは、大字が単一だったので複雑でない(明治もひとつの村)なので、「亘理町字中野...」とする手もあっただろうが、ここも荒浜(町)の語を残す意識が強かったで、合併条件事項のとおり旧町名(荒浜)を大字として残したのだろう。 吉田地区は、現状でも吉田と長瀞の2つの大字がある。合併条件事項では、吉田地区は旧町村名をつけないとされたことから逆算して考えると、昭和の合併前は「吉田村吉田字○○」「吉田村長瀞字○○」と表記していた(明治の町村制で吉田村と長瀞村が合併。5(1)参照)ではないか。4 小中学校(1)小学校 小学校は6校。通学区域(学区)を確認すると(町規則)、小学校は次の通り。小字の一部が対象や対象外とされている場合を除外して、概要をつかむ。 ・亘理小学校 字○○、逢隈鹿島字○○、逢隈神宮寺字○○ ・荒浜小学校 荒浜字○○ ・吉田小学校 吉田字○○ ・長瀞小学校 長瀞字○○ ・逢隈小学校 逢隈上郡字○○、逢隈下郡字○○、逢隈小山字○○、逢隈田沢字○○、逢隈中泉字○○、逢隈牛袋字○○、逢隈十文字字○○、逢隈榎袋字○○ ・高屋小学校 逢隈高屋字○○、長瀞字○○(各小字の一部とされる)、逢隈鷺屋字○○、逢隈蕨字○○ 以上のとおりで、13ある逢隈を冠する大字(逢隈○○)が3つの小学校区に分かれているようだ。(2)中学校 中学校は、亘理、荒浜、吉田、逢隈の4校だ。 ・亘理中 ←亘理小学区+吉田小学区+逢隈高屋字○○ ・荒浜中 ←荒浜小学区+逢隈高屋字○○ ・吉田中 ←長瀞小学区 ・逢隈中 ←逢隈小学区+逢隈鷺屋字○○、逢隈蕨字○○ つまり、高屋小学校だけが中学校になると学区が分割される。すなわち高屋小の学区のうち、逢隈高屋は、亘理中と荒浜中に分かれて進学し、逢隈鷺屋と逢隈蕨は逢隈中に進学する。5 町村合併の経緯 『亘理小史』(亘理町史編纂委員会編、亘理町発行、平成2年10月1日)から。(1)明治の町村制 明治5年の大小区制で、亘理郡は第19大区となり、さらに、8つの小区に分けられた。現在の亘理町域は、次のようにされた。 ・小1区(9)=上郡、下郡、小山、田沢、中泉、牛袋、十文字、榎袋、鷺屋 ・小2区(3)=蕨、高屋、高須賀 ・小3区(3)=小堤、鹿島、神宮寺 ・小4区(5)=長瀞、吉田(一部は現山元町へ) 明治11年、大小区を廃して郡区町村をおく。 明治21年4月に市町村制が公布され(翌22年4月施行)、現亘理町域は次のようにされた。 ・亘理町(まち)←小堤村 ・吉田村←吉田村、長瀞村 ・逢隈村←牛袋村、榎袋村、鹿島村、高屋村、上郡村、下郡村、小山村、鷺屋村、十文字村、神宮司村、田沢村、中泉村、蕨村 ・荒浜村←高須賀村 鹿島村など13村が「逢隈村」とされたのは、『亘理小史』によると、昔「逢隈の里」と呼ばれた地域であったことによる。 小堤村が単独で広域地名の亘理を名乗ったのは、亘理氏の館や亘理伊達氏城下町の歴史から名乗る資格があったということだろう(おだずま意見)。(2)その後の経緯 荒浜村が荒浜町となる(昭和18年)。昭和の合併で2町2村が合併したのは上記3(2)のとおり。6 余談 先日三陸道を走っているとき、運転している編集長に助手席の特別秘書(娘です)がカーナビ画面をみながら声をあげた。「十二支のような地名があるよ!」と、写真も撮っていた。あとでネットで検索したら、大字「逢隈蕨」の地域の中に、十二支の動物や、天、地、人の地名(小字)がある。非常に面白いと思いました。■別建てで記事にしています 十二支と天地人(亘理町)(2024年03月12日)■関連する過去の記事(地名などについて。下記記事最後に掲載の記事リストご覧ください) 地名(市町村名)の付け方の類型論(2024年03月05日)