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2024.08.16
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カテゴリ:宮城

戦後、米川村議会議員を務め、「米川新聞」を15年間500回にわたり発行した女性がいた。キリシタンの歴史の再発見、集団洗礼とカトリック教会創立など、戦後の米川の地域社会の姿に思いをしながら、下記文献をもとに、記します。
■佐藤和賀子「『米川新聞』からみえるキリシタンと地域社会」
 仙台白百合女子大学カトリック研究所編『東北キリシタン探訪』教友社、2024年 所収
(なお同書の他執筆者部分も適宜参考にしています。出典等は記事本文中に注記します。)
■特に関連する過去の記事(他の関連する記事は後掲)
 海無沢の三経塚(2010年11月11日)
 カトリック米川教会(2010年11月9日)
■関連する記事 「東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に」シリーズ
東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その1 田束山)(2024年08月31日)
・続編予定中

1 町村合併
 1889年(明治22)4月に、狼河原村と鱒淵村が合併して米川村になる。人口5800人ほど。農耕地は少なく、煙草、養蚕、製炭が主な産業だった。その後、1956年(昭和31)9月、米川村と錦織村が合併して日高村が誕生。人口8500人ほどであった。当時の県は人口1万人以上の広域合併を勧奨したため、一年も経たない1957年(昭和32)5月に、日高村と米谷町が合併して東和町となる。
 日高村の合併が決議されたのは1954年(昭和29年)3月26日だが、直後の米川新聞114号(1954年4月1日)の「波紋」欄には、第一の念願たる米川の主体性確立には、今後の大籠部落との併合が是非必要である、とする読者の意見が掲載された。
 大籠地区は米川に隣接しキリシタン遺跡がある点で共通する。1889年(明治22)、大籠村、津谷川村、保呂羽村が合併し、岩手県東磐井郡大津保村ができた。さらに、1955年(昭和30)に、大津保村の旧大籠村と旧保呂羽村は近隣町村とともに東磐井郡藤沢村になる(2011年一関市に)。
 なお、大保津村は戦後、貴重なキリシタンの聖地として調査が行われた。(上掲書所収、高橋陽子「地域の人々の活動に生きる隠れキリシタン:東北のキリシタン聖地」から。当ジャーナルで別記事にしたい。)

2 米川新聞
 1951年(昭和26)1月15日に創刊、終刊は1965年(昭和40)2月21日である。その間、日高村誕生で新聞の名称も日高新聞に変更、東和町誕生の際は、北星新報に改称、その11か月後に再び米川新聞になる。
 藁半紙(ほぼB4サイズ)ガリ版両面印刷の2ページ。発行部数は350前後、月3回発行で購読料15円(1953年当時)。編集に関わった同人メンバーは、議員の沼倉たまきを中心に、教員、郵便局員、役場職員、農民、主婦など多様。配達は小学生高学年や中学生が担当し(小さな同人)、報酬は不明だが年に一度バスで松島等へ遠足のご褒美があった。
 特色は、沼倉の担当による詳細な議会報告が掲載されたこと。また、論説や「桑の実」(朝日の天声人語に相当)、農事放談、農事メモ、学校の行事予定や人事異動、「波紋」(読者投稿欄)、「ほそみち」(風刺のきいたエッセー)、時々小学生向けのクイズが出され景品に文房具をプレゼントしたようだ。出生、死亡、会葬御礼、火事見舞い、商店広告等も載った。
 
3 沼倉たまきの生涯(1896-1990)
 米川新聞の編集発行人であった。
 1896年(明治29)米川村に江戸時代から続く医者である沼倉家に生まれる。父の精一郎で5代目と言われる。たまきの生まれる5年前の1891年(明治24)、沼倉家は石巻町の安田家から昌平(12歳)を養子に迎える。たまきは1914年(大正3)、宮城県女子師範学校を卒業し、翌年米川村小学校教員になる。1917年(大正6)には、朝鮮総督府に勤務していた義兄を頼り朝鮮にわたり日本人学校に勤務。義兄の勧めで1919年に婿養子縁組の結婚をするが、翌年に夫が亡くなり、3か月後に長男隆文が誕生。1941年(昭和16)朝鮮で一緒に暮らしていた母りんが亡くなり、2年後には隆文が結核で23歳で亡くなる。
 終戦後、たまきは母、夫、息子の3つの位牌をもって帰郷し、1946年(昭和21)米川小学校に勤務。翌年には米川中学校に転勤し、在職のまま米川村議会議員に立候補して当選(1947年4月30日)。その後も日高村議会議員、東和町議会議員に連続当選し、1965年(昭和40)5月14日まで議員を続けた。
 翌年の1966年(昭和41)に洗礼を受ける(洗礼名モニカ)。1985年(昭和60)に沼倉正見・満帆夫妻と養子縁組をしている。正見は米川出身の画家で、高校教員の満帆はたまきが朝鮮で小学校の教員をしていた時の教え子である。1990年(平成2)に94歳で亡くなる。

4 沼倉たまきの議員活動と米川新聞
 たまきが村議になって3年8月が過ぎた1951年(昭和26)1月15日に米川新聞が創刊される。発刊の辞には、明瞭な村を再建するためとある。
 なお、創刊号の記事の冒頭は、「新校舎の行方?-行き悩む学校敷地問題-」で、懸案の中学校建築問題を論じているようだ(同書掲載の資料写真から当ジャーナル)。
 1965年(昭和40)2月21日発行の第500号を最後に廃刊するが、同号には、「終戦5年という頃、米川にも正しい民主主義を育てようと同士が集まって新聞を発刊した。その功罪は読者の判断に委ねたい」とある。その3か月後の5月14日にたまきは18年間の議員生活を終える。
 編集責任者は、221号までは沼倉たまき、222号から406号までは東北電力勤務の亀掛川貢一、以降は個人でなく米川新聞社となっている。

5 キリスト教に関する記事
 米川新聞に掲載されたキリスト教関係の記事は、内容から3つの時期に分けられる。

(1)隠れキリシタンの遺跡や資料の発見が相次いだ時期 =1951年から1953年

 8号(1951年3月25日)には「カトリック聖人 後藤寿庵の墓発見さる」。墓石の絵が掲載され、「一天齢延壽巷主」と読める文字がある。寿庵についての記事の要約はこうだ。
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 後藤寿庵の前の名は岩淵又五郎で、葛西氏の家臣である兄が戦死、葛西が没落後、又五郎は諸国を放浪し長崎でキリスト教徒になった。京都の商人田中勝助と親交を結び、田中の推薦で伊達政宗の家臣になり、その時、後藤と改姓し、現在の岩手県水沢市福原の地に領地を与えられた。福原に堰(寿庵堰)を作り農業の発展につとめた。キリシタンの迫害が激しくなり、政宗は片倉小十郎に捕縛を命じるが、寿庵は逃れ、元和9年12月以来、行方は不明になったと伝えられている。
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 元和9年(1623)の前年に長崎で元和の大殉教があった。51号(1952年6月21日)には、「訪う人繁き 寿庵師の墓」、53号(1952年7月11日)に「後藤寿庵墓参の名士」と続く。名士とは全日本観光事務局と宮城県観光課の関係者で、観光資源にする動きがあったようだ。
 55号(1952年8月1日)では、同年7月16日岩手日報に掲載された記事(岩手県南部家の古文書によれば寿庵の系統をひく信者が84人いた)を紹介している。
 しかし、59号(1952年9月11日)では、新しく寿庵の墓碑がつくられ、仙台と一関の教会が協賛で落成式を行ったとの記事が掲載されている。8号で墓と紹介された「一天齢延壽巷主」との関係はわからない。
 米川新聞が報道(一天齢延壽巷主)してから40年後に、郷土史家の沼倉良之氏は『洞窟が待っていた仙北隠れキリシタン物語』(宝文堂、1991年)を著す。この中で、「一天齢延壽巷主」の墓は、1951年(昭和26)3月18日に旧米川村で発見されて後藤寿庵の墓と報道されたが、その墓は後に「狼河原村高人数御改帳」から後藤正八の墓であることが確認された、と記している。
 60号(1952年9月21日)には、「聖地における荘厳ミサ」。新しく造られた寿庵の墓碑の前でミサが行わわれ、NHK全国放送予定である、と書かれている。また、同号には、じゅあん羊かん本舗の広告がある。
 61号(1952年10月1日)では、宮城県史編纂委員の只野(淳)、小原(伸)、岩間(初郎)の三氏が米川綱木沢の小野寺藤右衛門宅を調査して、キリシタンに関する重要な古文書を発見した、とある。この文書には三経塚の由来等の記述があったようだ。
 68号(1952年12月11日)では、「子安観音三体発見」の記事で、宝ノ沢で2体、毘沙門天の堂内で1体発見され、何れもマリアを観音様や地蔵様の形にしたと説明がある。
 75号(1953年2月21日)では、沼倉良之氏が、小野寺家の巻物(「老聞並伝説記」。なお、沼倉良之『洞窟が待っていた..』では「伝説並老聞記」と記している)から三経塚について紹介している。
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 鉱山盛りし処 東磐井郡保呂羽村千松大篭村より製鉄方お役人が来り 神仏の信仰を語り教え人々は皆尊び申候処 其後は伊達様の御役人参り 信者を集めて打ち首となす張付となす 手と足に釘を打つ ・・・・・・・死体と経文を埋候 鉱夫の人数は三ヶ所・・・・・・・一場所に四十人位・・・・・・・享保年間の事
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 76号(1953年3月1日)には、「老聞並伝説記」から、隠れ籠の由来が紹介されている。
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 (旅人が)享保9年8月15日夜、磐井郡一関より黄海に行くために一夜の宿を願うにより 是を許したるも出発は何時とたずねしに 明朝五ッ刻と語りし時 門外に人の声するあり これは追手の役人なり この家に五〇位の男あらば差出すべしとの事 その中に裏門より出で山に登りて一夜を明かす ・・・・・・・かくれた所を隠れ籠と呼んでいる・・・・・・・旅人はついにつかまって磔になったという
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(2)教会活動が活発になった時期 =1954年から1960年頃

 小林有方司教が米川村を訪問し、その後に集団洗礼や聖堂建設など教会活動が活発になった時期である。
 小林司教は仙台教区長を退いた後に、1971年(昭和46)8月、第8代米川教会の主任司祭に就任した。1980年発行の『身も魂も 米川カトリック教会創立25周年記念誌』に「米川と私」と題したエッセーを寄せている。
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 私が・・・・・・・仙台教区長に任ぜられたのは、昭和29年の春三月でした・・・・・・・(只野淳氏が)「宮城県北に、米川という不思議な村があります。350年前の殉教者の子孫の住む村落です。殉教の遺跡も数多くありますから一度行ってみませんか」そして、私は、誘われるままに、何気なしに〔おだずま注、この5文字に傍点あり〕、29年の夏の一日、その米川に第一歩を印ました。
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 この時の記事が124号(1954年7月11日)に掲載されている。小林司教が初めて米川に来て1年後、1955年(昭和30)7月10日には集団洗礼がある。159号(1955年7月11日)には、「全国的にも異例の式」「受洗者は184人、大人38人、大部分が小中学生だった」などと。同号の社説の記載は次の通り。
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 去る10日、184名が受洗された事は本村何百年来の快事である・・・・・・・われわれの祖先がキリスト教を信仰し、120の殉教者を出した聖地である事は、つい近日まで誰一人、口にする者のなかった・・・・・・・人類愛に生き抜くべく改宗された方々のその英断、ひたすら良い子たれと、わが子を神に託すべく受洗させられたご両親の決断に対し、心から敬意を表したい。願わくは受洗者のすべてが、村人の心のともしびとなられるよう祈ってやまない。
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 この集団洗礼は『アサヒグラフ』(1955年7月27日号)で紹介された(バテレン村に主はきませり-宮城県登米郡米川村-)。米川に聖堂はなく、洗礼式は米川小学校で行われた。7月10日は農繁期で昼は忙しかったので、夜に行われた。『アサヒグラフ』記事では、なぜ集団洗礼を受けたかとの記者の質問に、少年が「母ちゃんが、まぁええじゃろう」と答えた、とある。
 181号(1956年3月1日)では、聖マリア保育園開園を知らせ、241号(1957年11月1日)には、「カナダ レミュ大司教の贈物」の見出しで聖堂落成の記事が掲載されている。小林司教はカナダで、江戸時代に殉教のあった米川で集団洗礼が行われたことを講演した結果、浄財が集まり聖堂建設が実現したと報じている。
 301号(1959年7月10日)には、次の記事(集団洗礼4周年)がある。
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 7月10日は米川カトリック教会に於ける第1回集団洗礼の記念日にあたり、教会では・・・・・・・ミサを捧げることになっている・・・・・・・信者たちも追々増え信仰生活も漸く板について来つつある。保育園事業その他教会を中心とした仕事も着々と実績が上がって居り今後が期待される。
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 前掲『身も魂も...記念誌』によると、同誌が発行された昭和51年(1976)時点で、米川教会とその巡回教会の大籠教会の両教会で受洗した人は、臨終洗礼を含めて540人。

(3)米川カトリック教会神父の随筆が掲載された時期 =1960年から1963年

 1960年(昭和35)に米川カトリック教会は教会報「じゅあん」を発行する。それ以降、米川新聞に教会関係の記事は少なくなるが、神父のエッセーが掲載されるようになる。そのうち3例を紹介する。
 347号(1960年11月1日)には、浅沼事件(10月12日社会党委員長浅沼稲次郎が右翼成年に刺殺される)について平田浩神父が寄稿。379号(1961年10月1日)の島村泰三神父の題は「世界の関心は核実験」。ベルギー人の村首ステファノ神父は「青い目で見た米川」の題で連載し、432号(1963年4月1日)では、できるだけ他人の私生活に互いに興味を持たない方が良い、と書いている。

6 カトリック布教からみた米川新聞の評価
 前出『身も魂も...』には、米川新聞を「間接の布教」と評価する意見が掲載されている。教会報「じゅあん」が発行される前は米川新聞が教会の広報誌の役割を果たしていたが、新聞の編集者は布教を第一の目的に書いたのではないだろう。公平な報道を心がけていたと推察される記事があるからである(下記)。
 143号(1955年1月24日)「新春座談会 若い世代に聞く」では、ある青年の「自分だけが幸福になるのなら宗教で出来ようが、家族を幸福にするには経済が伴わないことには」という率直な意見を掲載している。359号(1961年3月1日)では、辛口エッセーを載せる「ほそみち」欄で次の文章がある。
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〔おだずま要約〕旧正月元旦、お父さんは神タナの前で「五穀ホージョー、国家安全」とかしわ手。7歳のA子と5歳のS坊は保育所のおしこみよろしく「チチトコト セイレイノ ミナニヨリテ アーメン」。3歳のT坊やは「ナンミョーホーレンゲッチョ」。ハイティーンK君は年越しパーティで夜更かしし今朝もぐりこんだ床の中から「アアアリガタヤ アリガタヤー」
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 最後の一節は、1960年某歌手が歌って流行した「ありがたや節」の一節。(五穀豊穣)国家安全は、前年(1960年)の安保闘争を反映して、家内安全を国家安全に書き換えたと推察する。そして、このエッセーの重要な点は、父親だけが伝統的な宗教儀式を継承していること。
 伊藤幹治氏が「東北農村におけるキリスト教の受容」(『国立民族学博物館研究報告』11巻1号、1986年8月25日)で、「家督相続者非受洗の法則」と書いている。父親はキリスト教徒にならないことがエッセーから読み取れる。

7 現代につながる隠れキリシタン(まとめ)
 隠れキリシタンは既存の宗教から新しいキリスト教の信仰に生きた人々である。戦後参政権を得たが、女性が議員として活躍する機会は特に農村では閉ざされていた。しかし、米川の有権者は、沼倉たまきを議会に送り18年間も政治を託した。この選択は、既存の価値観にとらわれない点で、隠れキリシタンと通じるものがある。
 米川新聞が15年間休刊がなかったことは、信仰生活を送った米川の人々の持続力と勤勉の成果である。そして、編集者たちが自らを「同人」と呼んだことに象徴されるが、年齢や男女の差もなく多様な人々が結集し新聞発行を担い、米川地区の購読者もまた担い手の一員だった。
 戦後の米川地区の人々の中には、隠れキリシタンと同じような精神が生き続けていたと思う。


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最終更新日  2024.08.31 11:38:56
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