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国宝に指定されてからは、初めてその姿を見に訪れました。 傍らの解説板の内容が下記。 ------------ 国宝 多賀城碑(古文書) 詳しくは知りたい方はこちらから(QRコード、ホームページ) 〔おだずま注 ジャンプ先はこちら(多賀城市サイト)〕 多賀城 去京一千五百里 去蝦夷国界一百廿里 去常陸国界四百十二里 去下野国界二百七十四里 去靺鞨国界三千里 西 此城神龜元年歲次甲子按察使兼鎮守将 軍從四位上勲四等大野朝臣東人之所置 也天平寶字六年歲次壬寅参議東海東山 節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎮守 将軍藤原恵美朝臣朝獦修造也 天平寶字六年十二月一日 上部に「西」の一字があり、その下、細い線で囲んだ中に11行、140字が刻まれています。碑文内容は大きく二つに分かれ、前半は、京(平城京)などから多賀城までの距離が記されています。当時の一里は約535mです。後半には、神亀元年(724)、大野朝臣東人(おおののあそんあずまひと)が多賀城を設置したこと、天平宝字6年(762)、藤原恵美朝臣朝獦(ふじわらのえみのあそんあさかり)が多賀城を修造したことが記され、最後の行に碑を建てた年月日が刻まれています。 碑文の内容が藤原朝獦による修造に力点を置いていることから、多賀城修造記念碑とみることができます。 碑は歌枕「壺碑(つぼのいしぶみ)」としても有名で、元禄2年(1689)、松尾芭蕉は「おくのほそ道」の旅の途中、碑と対面し、そのときの感動を紀行文『おくのほそ道』に書き残しています。 また多賀城碑は、那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ、栃木県大田原市)、多胡碑(たごひ、群馬県高崎市)とともに、 日本三古碑のひとつに数えられています。 多賀城と古代東北の解明にとって重要な記載があり、また、数少ない奈良時代の金石文として貴重であることから、平成10年6月30日に国の重要文化財、令和6年8月27日に国宝に指定されました。 令和六年八月 多賀城市教育委員会 寸法 高さ248cm (地上部196cm)、最大幅103cm、最大厚さ72cm 石材 花崗質砂岩 ---------- ■碑の脇の説明板の中でQRコードから入るサイト(重要文化財多賀城碑) 真偽論争を含む碑の経緯や、歌枕としての整備、全国の古碑などについてわかりやすく記されています。藩政時代に仙台藩や南部藩で行った歌枕の地の整備は、現代でいえばインバウンド誘客の取組でしょうか(おだずま談) ■関連する過去の記事(古代多賀城、多賀城碑) 日本三古碑と上野三古碑(2023年01月13日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=窯跡など 多賀城 命名の由来(2012年10月9日) 多賀城の遺跡認識(下)(2011年11月19日) 多賀城の遺跡認識(上)(2011年11月18日) 多賀城と4面サイコロ(2011年9月14日) 多賀城碑、壺の碑、日本中央碑について(2010年11月1日) 東北の道 概説(その1 古代)(2010年10月23日) 多賀城 壺の碑(08年9月15日) 日本の三古碑(07年8月22日)(多賀城の碑) 船形山神社の仏像と多賀城(07年8月30日) 加瀬沼から多賀城六月坂地区へ(07年4月16日) 多賀城跡の風景(07年2月19日) 多賀城の基礎知識(後編)(06年8月8日) 多賀城の基礎知識(前編)(06年8月7日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 平泉への道(06年1月11日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 古代東北の理解(06年5月31日) ■関連する過去の記事(多賀城市) 多賀城緩衝緑地と砂押川災害復旧(2015年6月21日) 湊浜の昔(2015年3月15日) 末の松山と東日本大震災の津波(2013年10月19日) 多賀城市「下馬」の由来(2012年8月14日) かなり古い時代の岩 沖の石(2011年11月27日) 野田の玉川 歴史散歩(その1)おもわくの橋~大土手橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その2)清水橋~おもわくの橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その3)天神橋~せせらぎ橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その4)天神橋上流の鉄道廃線跡(10年5月4日) 末の松山・沖の石(10年4月30日) 多賀城のあやめ(09年6月13日) 多賀城 壺の碑(08年9月15日) 加瀬沼から多賀城六月坂地区へ(07年4月16日) 多賀城跡の風景(07年2月19日) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.09.17 06:21:43
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