『男の顔は履歴書だ。』というけれど、履歴書を書いている男の顔はあまりカッコのいいもんじゃない。なんで、こんなことをいまさら書かなくてはならないのだ、と毎回思う。いやいや、学生のときは思わなかったか。職歴がついてからかな。その職歴というものが厄介な代物で、社会人たる者は履歴書のほかに職務経歴書なるものを書かねばならぬ。これこそがその人の、いやその男の生き様の証なのだ。学校を出てからどのように世の中を渡ってきたのか、A4一枚で表現されているのである。私の場合はどうしても一枚で足りなくなり二枚になったが、世間様よ許してほしい。
私という人物を職務経歴書から察するに、飽きっぽく、忍耐の足りない人物であることが推察される。まず、新卒では岐阜にあるアパレルメーカーに就職している。そこで何をしていたかといえば出荷作業だ。修行という名のていのいい奴隷であった。なので商品の企画をすることもなく、わずか10ヶ月で逃げ出すように退職している。じつは、ほんとうは広告の仕事がやりたかった。やらずに後に後悔するより、やって砕け散ったほうがよい。そう思って、いわゆるギョウカイな現場へ行き、3~4年で砕け散った。今思えば、よく会社に入れたと思う。あそこの会社、なかなか入れないのだよな。入ったはよいが、才能の限界はすぐそこに見えており、後に入った年下にあっさり追い越されていった。美術の才能がない者にデザインをさせないでほしいなあ。
それでも私は、広告業界でなんとか飯が食えないかとフラフラしていたが、母が脳梗塞で倒れたのをきっかけに足を洗うことになった。これでよかった。おかあさん、ありがとう。そう思いたい。一人息子の私は、毎日、リハビリ病院に行き、母と二人三脚で母の社会復帰に努めた。その甲斐あってか、母は左半身麻痺というハンデを持ちながらも、ほぼ、日常生活を送れるようになった。そんな社会とはちょっと離れた毎日をおくるうちに、ソーシャルワーカーという職業を知り、それになってみるかという気持ちになった。そして私は広告から福祉の仕事へのチェンジしたのである。経歴書をみると突然、福祉施設に在籍している経過のみ記されてあるが、背景にはそのようなバックストーリーがあるのである。介護業界は肉体的にもきつく、社会的地位も低い。仕事は楽しかったが、それこそ修行のつもりでやっているのであり、生涯一介護人のつもりは毛頭なかった。だから介護保険制度とともにケアマネージャーの世界へ転職することは自然の理であった。その介護保険制度というお役所が作った理想郷はちっとも理想的な福祉ではなくて、新しい民間の業種に意気込んでいったものたちは、次々に討ち死にしていった。福祉で働くものには死なない程度しか、お国は報酬をやりたくないようなのである。土建屋さんがうらやましかった。
私は介護保険の混乱や矛盾とともに流転し、ポチャン!と川に落っこちた。現在の姿である。そんな姿が職務経歴書の行間に隠れ見えするのである。そろそろ、時間だ。面接に行くとするか。
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