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カテゴリ:不登校
巨椋っす。
ちょっと仕事が忙しく、更新している時間がないので、過去、他の場所で書いたコラムを転載します。 以前、映画『不登校の真実』を撮っていたときに書いたコラムでございます。 不登校におもう 巨椋修(おぐらおさむ) 更新日時:05年3月30日 この映画を制作するようになって、多くの人から 「不登校についてどう思うか?」 「この映画で伝えたかったことは?」 「なぜ不登校の映画を作ったのか?」 などといった質問を受けるようになりました。 これらの答えとしてわたしは 「不登校自体は、大した問題ではない。いや、問題ですらないと思っている」 と、答えてきました。 わたし自身、便宜上“不登校問題”という言葉を使いますが、不登校が学校へ行くか行かないかということだけであれば、それは大した問題ではないと思っています。 本当の問題は学校へ行く・行かないではなく、その裏側にあると確信しているからです。 不登校の原因は、学校でのイジメであったり、親の虐待、先生の体罰、心の傷や病気、本人の怠けなどなど、百人百様の原因があり、ひとつのパターンにおさめることは不可能です。 一面、学校にいかないことが問題とされるのは、“子どもは学校に行かなくてはならない”という固定概念があり 『学校に行く』=○ 『学校に行かない』=× という、二つに一つの答えしか求めないことが、『学校へ行かないことがダメなことで問題である』という、いわゆる“不登校問題”ということになっているような気がします。 この二つに一つの考え方は、わたしたちの単純で、一見して実に力強く周囲にアピールすることができる考え方です。 例えば 勝利か敗北か 白か黒か 正義か悪か 有罪か無罪か と、いった具合です。 しかしこの考え方では、 「勝つためには何だってやる」 「敗けたら、これまでの努力がすべて水の泡になる」 「正義に少しでも反する人は、みんな死刑にしちゃえばいいんだ」 などといった極端な考え方しかできなくなってしまいます。 不登校に関して言えば 学校にさえ行けるようになれば、問題解決である。 という考え方ですね。 実はこの学校にさえ行けるようになれば、問題解決という考え方が、不登校問題に対峙している人の多くが思っている解決法でもあるのが現実なのですよ。 でもこれでは本当の解決になっていないですよね。 イジメを受けて学校へ行けなくなった児童へ無理やり学校へ連れていく。 これって、わざわざイジメられに行けっていうことになりかねないでしょう? でも周囲の人は言うんですね。 「イジメなんかに負けちゃだめだ。やられたらやりかえすくらいでなきゃ」 ってね。 でも、自分の身に置き換えて考えて見て欲しいんですけど、自分が複数の人から理不尽な肉体的・精神的暴力を受けて、やりかえせますか? 「オレはそんなに弱くない。やりかえせる」という人は、こう想像してください。 あなたは暴力団事務所に、肉体的暴力と精神的暴力を受けるとわかっているのに毎日出かけることができますか? もちろん学校は暴力団事務所とは違います。誤解を受けかねない表現ですが、イジメを受けている児童・生徒はそれに似た心理になってしまいます。 そこまで追い込まれてしまうから、自ら死を選ぶという子どもも出てくるのです。 学校内でレイプされた子どもが、親や先生にも相談できなくて、学校が怖くなって行けなくなる。 周囲の人は、そんな事情がわからないから 「おまえは根性がない。甘えるな!」 と、怒鳴りつけて無理やり学校へ連れて行こうとする。 悲しいかなこんな現実があったりするんです。 学校に行く=○ 学校に行かない=× 不登校の子どもが、学校に戻ることのみを解決とするだけでは、本当の解決ではない。 学校に行く行かないではなく、本当の問題はその裏側にある。 それがこの映画を作って思ったことです。 (原作・監督 巨椋修(おぐらおさむ)) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008年05月14日 09時28分56秒
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