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カテゴリ:つきあい
ここブリュッセルで出会った日系アメリカ人の幸子さんのこと。。
サチコさんは、東京の米軍基地内の病院で生まれ、お母さんと一緒に浅草で育ち、日本国籍が無かったのでアメリカ、ハワイに渡った。そこで数年後アルジェリア戦争に参加したフランス人だけど、ヴェトナム戦争にも行ったアメリカ国籍も持ってる人と結婚してフランスへやってくるが、後ブリュッセルに流れてきた。 彼は料理人だったので、レストランではシェフとなりあちこちで仕事していて、サチコさんもそれぞれに仕事を変えている間にオニオンと繋がったのである。英語がしゃべれて、日本語もフランス語も片言だけど出来るので、その気になればまともなところでの仕事はあったのだが、まとも気質ではなかったのである。 といっても決して怪しい事はしていないことは書いておく。まともというのは、事務所などに入り込んでその中で忙しいふりをして、安月給の為にストレスにもまれてちゃんと寝れない夜を過ごす生活のことである。 詳しい話は端折るが、とにかく父親を恨んでいて、亡くなってもまだ恨んでいたのでそれをなだめにベルギーを去ってボルドーに住んでいる彼女に会いに出かけたオニオンだった。しかし、その話になるとつむじを曲げ切ってしまって、ひとまず連絡が絶えたのである。keep in touch(連絡し合おうよ)の反対になったのである。その後投函した誕生日のカードも住所が変わったようで送り返されてしまって、結局途絶えた形で終わったのだ。(これは実はオニオンが古い住所に出したからであるが、結果。。) 今どうしてるだろうか、ご主人の心臓の手術はフランスでないと医療費が出ないのでアメリカには戻れなくなったと最終の便りにはあったが。。念のために彼女はフランスの国籍も取得した。フランスから追い出されることも無いというご主人の配慮であった。彼女はまだ親戚がいるハワイに戻りたいようであったが、インターネットも携帯電話も使ってないので本当にどうなったかわからない。。 彼女の誕生日は4月13日で、本当は火曜日だったのだが、自分では金曜日だったと信じ込んでいた。アメリカ軍人になった沖縄人の父親からほぼ見捨てられて、浅草の母親の手一つで育てられたと言っていた。 一年に一回だけのこの日、どこかで元気にしてるだろうよと願うばかりである。 一緒に仕事してるとき、「たくさんお金があったら好きなモノが一杯買えて素敵だろうなぁ」とか独り言のように言ってた彼女が忘れられない。その時、オニオンは彼女にいくらお金があっても幸せは手に入らないよと心の中でつぶやいていたのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年04月13日 00時30分07秒
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