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カテゴリ:亡国のイージス
「『あんたらの何倍も勉強して、艦の成績を上げようって努力しているんだ。それを・・・どこの艦にもあんたみたいのがいて、邪魔をするんだよ。物わかりがいいってツラでしゃしゃり出てきて、なんでも有耶無耶(うやむや)にしちまって・・・!いい加減にしてくれよ。護衛官は町内会の寄り合いじゃないんだ』
子供さながら、杉浦は叫び続ける。きわめて優秀な頭脳と勤勉さを持ち合わせていながら、それだけでは渡れない世間の現実を認めようとしない男の声だった。そうした理不尽の中で人間修養を積んでこそ、幹部と呼ばれる存在になるのではないのか? 仙石は思ったが、偏差値が人格の優劣を決定する環境に慣れ親しんできた杉浦のような男には、艦の訓練成績向上がすべてなのだろう。教本に書かれていない人間修養などは、自分の仕事を阻害するものでしかないということのようだった。」(文庫本下巻310,311ページ) この原作が書かれた頃より少し状況は変化してきて、偏差値教育の限界はみんなが考え始めているようだ。 偏差値と人間性は全く相関関係がない。 むしろ、偏差値が高いことで慢心したり、自分を特権階級であるがごとく勘違いする人間のなんと多いことか。 「あんたらの何倍も勉強して」とあるが、勉強にも質があり、机に向かって問題集を説くことだけが勉強ではない。 そんなことすらわからない人も多いという風に読める文章だ。 そして「教本」というか「マニュアル」というたぐいのモノが、理屈を教える、学ぶためのものだけでなく、至る所にはびこるようになったように感じている。 ここでは「教本に書かれていない人間修養」となっているが、今は、人間修養に関する教本まで出回っている。 それがまた低レベルなのだ。 役所が作るそれなどは、想像を絶する低レベルさなのだ。 実は、人間修養に関する教本は大昔からある。 中国の古典(諸子百家と言われるもの)のような思想書のたぐい、仏陀の教え、イエスキリストの教えなど、宗教のたぐい、哲学書と言われるものの中にもにもその要素が含まれている。 もちろん良いものもあり、悪いものもあるだろう。 しかし、そういうモノにふれるのは、ある程度大人になって、興味を持った人間だけだ。 全くふれないで一生を終わる人の方が多いだろう。 全ての人に「人間修養」などと堅っ苦しいモノが必要とは思わないが、教育の中であまりにも無視され過ぎてきたように思う。 天皇陛下や皇太子様を見ていると、人間はそういう教育を受ければ必ずあれだけやさしくなれるモノなのだと感じる。 皇族の方たちは、生まれながらに皇族で、いやだと思っても抜けられない。 そのプレッシャーはものすごいものだと思う。 それをはねのけ、自分たちの置かれた立場を受け入れ、国民の見本となるべく日々精進しているのだろうと思う。 どういう教育を受けているのだろう? われわれ庶民がすべて皇族のような教育を受ける必要は無いと思うが、少しはそれを取り入れていくことは必要なのではなかろうか? そういう教育は洗脳教育として嫌ってしまうのだろうか? 私は性善説を盲信してはいない。 それどころか「法治国家」が今の人間の意識レベルでは正解だと思っている。 法治主義とは性悪説に基づくものだ。(韓非子の考え方) しかし、それは国や自治体を運営するためのモノで、家族、身内、学校の友達同士などの小さな社会ではやはり性善説でありたいと思う。 「良心」を中心にして物事を考えたいし、できるだけそのようにしているつもりだ。(あくまで「つもり」だが。。。) 自治体も国も小さな社会が集まって構成されているのだから、「良心」をもっと大切にした小さな社会が広まれば、自然と自治体も国もそれに従うようになると夢をみている。 たぶん生きているうちには。。。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年07月26日 16時56分23秒
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