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2024.01.03
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カテゴリ:名所・旧跡
1/3(水)地元兵庫県での帰省を終えて横浜の自宅へ帰る途中、
浜松で下車して寄り道。

徳川家康が武田信玄に大敗を喫した、
三方原古戦場と浜松城へ行って来た。

浜松駅からバスに乗り
浜松城から徳川家康が出撃したルートを辿って、
約30分で三方原古戦場へ。




浜松の市街地から坂を登った、
三方原台地と呼ばれる平らな台地に広がる古戦場。

浜松城の徳川勢を無視して、
三方原台地を浜名湖の北方へ向かって進軍する武田勢を、
台地の北端に追い詰めて撃退しようと出陣して来た徳川勢が、
逆に台地の上で待ち構えていた武田の大軍に迎撃され、
まさにボコボコなされた「三方原の戦い」の現場だ。

現在は平らな台地に浜松市の墓園が広がっていて、
墓園の片隅に古戦場の石碑と看板があるだけで、
古戦場の面影を感じるものは残っていない。

浜松城からここまで出て来て、
背を向けているはずの武田勢が、
魚鱗の陣形で待ち構えていた時はどんな景色だったのだろうか。

武田勢の魚鱗の陣形に対し、
徳川勢は急遽、鶴翼の陣形を敷いて迎え撃ったが、
呆気なく布陣を破られて大敗し、
一斉に浜松城へ向かって敗走した。

帰りは再びバスで浜松城まで、
徳川家康が敗走した道を辿る。

浜松城に到着。


敗走した、若き日の徳川家康像が建っている。


室町時代、浜松付近は曳馬と呼ばれ、
駿河今川氏傘下の飯尾氏が築いた曳馬城があったが、
1570年に徳川家康が遠江を領有してから、
浜松と改称し新たに浜松城を築いたのが城のルーツ。

1590年に城主となった、
豊臣家譜代の堀尾吉晴によって天守が建てられたが、
1600年代に姿を消してしまい、
長く天守台の石垣が残るだけだった。



現在建っているのは、
1958年(昭和33年)に建てられた、
鉄筋コンクリート造3階建ての復興模擬天守で、
中は資料館として公開されている。

天守最上階から戦場となった三方原方面を望む


徳川家康は29歳から45歳までを浜松城を居城として過ごし、
武田信玄にボコボコにされた「三方原の戦い」があったのは31歳の時の事。

家康にとっては、
桶狭間の戦い後の大高城から岡崎城への敗走、
本能寺の変の後の伊賀越えからの脱出行と並び、
人生の中での大ピンチだった三方原からの敗走。

その後の家康の出世や、
歴代城主が幕府の要職に就いた事から、
「出世城」と呼ばれるようななった浜松城だが、
その出世も大敗から多くの学びを得た、
徳川家康の成長あってのものだろう。





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最終更新日  2024.01.03 15:09:45



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