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テーマ:読書(8606)
カテゴリ:本
映画館から帰って、再読してみる気持ちになって、久しぶり読み返してみた。 教えられていたとおり、わたしの感じ方は変化している。読書中も読了後も、20代半ばに感じたモヤやイライラを、それほど感じなくなっていた。 ワタナベや直子やレイコや緑の気持ちを受け入れられたのは、もっと大人になったからかもしれない。精神の病という、救ってやれない病気の直子を見守り続けると誓ったワタナベの苦しみは、どれほどだろうと同情することができる。感情移入もできる。 ただ、愛なのか責務なのかわからないまま、目の前にある緑との恋愛を巻き込んでいく様は、やはり釈然としなくてイヤだった。 今回読んでいて気がついたのは、緑が、覚えていたよりずっと苦労して傷ついていたことだ。 子どものころ両親に腹いっぱいの愛情を注がれなかったこと、父親や親戚の看病に明け暮れてクタクタであること、恋人との関係がうまくいっていないこと、、、それでも快活にしている、可愛げにワガママを言う彼女が好きだ。 映画の緑役だった水原希子に、苦労の色が見えないのは、だから今思うと残念だった。ただの身勝手なお嬢さんに見えてしまうのが、もったいないのだ。 直子役の菊地凛子と、配役が逆でもよかったかと想像してみるが、それでは壊れた直子の凄味は出ていなかったろうし、むつかしい。 性についてオープンに語る会話劇は、いまではなんの違和もなく読み進んでしまう。初めて読んだ8年ほど前は、会話そのものを嫌っていたのだけど。 『ノルウェイの森』は、愛読家で純文学を好む人には拒絶される傾向がある――らしい。純文学が好きだけれど、本をあまり読まなかった頃より楽しめた、やはりこれは年齢や経験を重ねた自分の変化ということかしら。 時が経っても変わらないのは、長い―という感想。赤と緑の装丁が当時としてはよかったのだから、上下巻は必然なのかもしれないけれど。 追記。 改めて映画を思いおこすと、小説にある死生観の多くは、描き出されてはいなかった。たくさんの時を要した出来事と、短い期間で起こった出来事と、そういう時の流れが持つ大事なニュアンスが伝わりきれなかったのは残念。 それでも、やはり日本の1960年代という独特な時代の匂いがこの小説には大切で、トラン監督が切り取った自然の美と時代の切なさが相まった映画化は、失敗作とは思えない。 小説を後から読み返してみたのも、よかったのねきっと。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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