古沢太穂の句碑
横浜の根岸森林公園に「古沢太穂の句碑」がある。古沢太穂(ふるさわ たいほ)は1913(大正2)年に富山県で生まれた人物である。本名:太保(たもつ)。俳号:太穂(たいほ)。家は料理屋兼芸妓置屋であった。幼くして父を失い、一家は東京から横浜へ移り住み、1938年に東京外語専修科ロシア語学科終了し、その後結核のため療養生活に入った。療養所で俳句を勧められ、1940年「馬酔木」を購読し、その後「寒雷」創刊に参加し、1947年赤城さかえらと同人誌「沙羅」を創刊した。また、新俳句人連盟に参加し、新俳句人連盟の委員長を永く勤め、その後顧問となった。 1951年には同人誌「道標」を創刊し、1972年「沙羅」と「道標」を合併して、「道標」を太穂主宰誌とした。 俳句の普及に尽力し横浜文化賞を受賞した俳人古沢太穂の記念碑が根岸にたてられている。近寄って何が書いてあるのか読む。判読不能であった。教養の無さに嘆く。