年間第30主日(A年の)答唱詩編
64 神はわたしを救われる【解説】 この詩編18は、王が歌った感謝の詩編とされていて、表題にも「ダビデの詩。主がダビデをすべての敵の手、また、サウルの手から救い出されたとき、彼はこの歌のことばを主に述べた」と書かれています。ダビデの生涯の物語の終わりのサムエル記22章にも「ダビデの感謝の歌」があり、両方に大きな違いはありませんが、この詩編18のほうが原形に近いと言われています。全体は二部に分かれていて、前半は、神をたたえた導入、作者の直面する死の危険、自然界に現れた神の顕現、神の正義をたたえた前半の結び。後半は、神から与えられた戦いの準備、内政の敵への勝利と、外的への勝利、最後に王位への感謝が歌われ、最後に「油そそがれた王、ダビデとその子孫に」と結ばれます。教会は、この約束がキリストにおいて成就したと考えています。パウロはローマの教会への手紙15章9節で、この詩編の50節を引用して、すべての民が神をたたえる根拠としています。 答唱句は、珍しくテージス(小節線の後ろ)から始まります。旋律の音は、G(ソ)、A(ラ)、C(ド)の三つの音で、その他の声部の音も大変少ない音で構成されています。文末以外は、ほとんどが八分音符で、「すくわれる」と「たたえよう」で四分音符が用いられて、ことばが強調されています。とりわけ「たたえよう」では、アルトのAs(ラ♭)とテノールの最高音E(ミ)で、信仰告白のことばが高められています。さらに、テノールは冒頭から「いつくしみ」までC(ド)が持続して、神への信頼と救いの確信が表されています。 詩編唱は、3小節目でバスに臨時記号が使われ(Fis=ファ♯)、緊張感が高められますが、4小節目は5の和音で終止し、旋律も答唱句の冒頭と同じ音になり、落ち着いて終わります。【祈りの注意】 冒頭は、指定の速度の、四分音符=72よりやや早めで始めるとよいでしょう。八分音符が連続しますので、メトロノームで計ったように歌うと、歌はもちろん祈りになりません。変なたとえかもしれませんが、ところてんを作る道具で、最初に、一気に押し出すような、そんな感じではじめるとよいでしょう。2小節目の「救われる」でやや rit. しますので、「わたしを」くらいから、わからない程度にゆっくりし始めます。「その」のバスが八分音符一一拍早く始まるところで、テンポを元に戻します。最後の「いつくしみをたたえよう」から、再びわからないように rit. して、最後はていねいに終わります。最後の「たたえよう」は、こころから神をたたえて、祈りを神のもとに挙げるようにしたいものです。 この答唱句は、「神はわたしを救われる」と現在形になっています。神の救いのわざ(仕事)は、かつて行われて終わってしまったのでもなく、いずれ行われるのでそれまで待たなければならないものでもありません。神の救いは、今も、継続して行われています。その、顕著なものが、やはりミサではないでしょうか。ミサは、キリストの生涯の出来事を思い起こす、福音朗読と、その救いの頂点である、受難-復活-昇天を記念=そのときその場に現在化するものです。このミサが、世界のどこかで、必ず継続して行われている。それを、この答唱詩編は思い起こさせてくれます。そのことを思い起こしながらこの答唱句を歌うことが、祈りを深め、ことばを生かすことになると思います。 第一朗読と福音朗読との関係をよくみると、今日の詩編唱は3節が中心になります。イスラエルが神から愛されたのは、イスラエルが偉大だったからでも、立派だったからでもなく、小さく弱い民だったからです。 神を信じる民はみな、立派だから、偉大だから、呼ばれたのではなく、医者を必要としているから、神の恵みに満たされる必要があったから呼ばれた、と言えないでしょうか。だとすれば、イエスがお答えになった並立する二つの教えが、最も大切なことは自明のことです。「神のおきては身近にあり」、天や地の果てにまで、誰かにとりに行ってもらう必要はないのです。 なお、解説のところでも述べましたが、詩編唱は3小節目が頂点となっていますので、そこへ力点を持ってゆくようにしましょう。ただし、あまり力まないように、自然な祈りの流れの中で行えるようにしてください。 【参考文献】『詩編』(フランシスコ会聖書研究所訳注 サンパウロ 1968 )