年間第7主日(C年)の答唱詩編
93 心を尽くして神をたたえ【解説】 冒頭、個人の感謝から始まる詩編103は、その美的表現、豊かな思想から、旧約の「テ・デウム」(⇒「賛美の賛歌」)と呼ばれています。全体は大きく3つの部分に分けられます。第一の部分は1-7節で、ここでは神による赦し、いやしが述べられます。続いて、それを動機として、8-19節では神のいつくしみをたたえ、最後にすべての被造物に神を賛美するように呼びかけます。神がシナイ山でモーセにご自分を顕現されたとき、神ご自身「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」(出エジプト34:6-7)と宣言されたように、恵みといつくしみとは神の属性であり、神との関係が修復されるときは、まず、神のほうから許しを与えてくださるのです。 答唱句は、前半、後半ともに、旋律が主に音階の順次進行によって上行します。「心を尽くして」と「すべてのめぐみを」が、付点四分音符+十六分音符のリズムで強調されています。さらにこのどちらも、旋律の音が同じばかりでなく、和音も位置が違うものの、どちらも4度の和音で統一されています。「かみをたたえ」は、「かみ」の旋律で、前半の最高音C(ド)が用いられ、祈りが高められ、バスでは「かみをたたえ」が全体での最低音F(ファ)で深められています。また、この部分はソプラノとバスの音の開きも大きくなっています。なお、「たたえ」は、バスでFis(ファ♯)がありますが、ここで、ドッペルドミナント(5度の5度)から、一時的に属調のG-Dur(ト長調)に転調して、ことばを強調しています。後半の「こころにとめよう」は、旋律が全体の最高音D(レ)によって、この思いが高められています。 詩編唱は、最初が、答唱句の最後のC(ド)より3度低いA(ラ)で始まり、階段を一段づつ降りるように、一音一音下降し、答唱句の最初のC(ド)より今度は3度高いE(ミ)で終わっていて、丁度、二小節目と三小節目の境でシンメトリー(対称)となっています。【祈りの注意】 早さの指定は四分音符=69くらいとなっていますが、これは、終止の部分の早さと考えたほうがよいでしょう。ことばと、旋律の上行形から、もう少し早めに歌いだし、「心を尽くして」と「すべてのめぐみを」に、力点を持ってゆくようにしたいものです。決して、疲れて階段を上がるような歌い方になってはいけません。この答唱句の原点は、イエスも最も重要な掟と述べられた(マタ22:34-40他並行箇所)、申命記6:5「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」によっていることを思い起こしましょう。 「すべての恵み」で、何を思うでしょうか。わたしたちが神からいただいている恵みは はかりしれません。毎日の衣食住、ミサに来れること、友人との語らい、家族団らんなど、さまざまな物事があるでしょう。わたしが、この世の中に生まれてきたことも大きな恵みです。、しかしこの「すべての恵み」を、端的に言い表しているのは、「主の祈り」ではないでしょうか。「主の祈り」のそれぞれの祈願こそ、神が与えてくださる最も崇高で、最も大切な恵みではないかと思います。これらのことを集約した祈りであるこの答唱句を、この呼びかけ、信仰告白にふさわしいことばとして歌いましょう。 二回ある上行形は、やはり、だんだんと cresc. してゆきたいものですが、いつも、述べているように、決して乱暴にならないように。また、音が上がるに従って、広がりをもった声になるようにしてください。一番高い音、「かみをたたえ」、「心にとめよう」は、丁度、棚の上に、背伸びをしながらそっと、音を立てないで瓶を置くような感じで、上の方から声を出すようにします。「かみをたたえ」でバスを歌う方は、全員の祈りが深まるように、是非、深い声で、共同体の祈りを支えてください。 この恵みの頂点は、やはり、パウロが『コリントの信徒への手紙』で述べている、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」(1コリント15:3-4)=受難と復活、そして、その前の晩に弟子たちとともに過ごされた、最後の晩さんの記念=ミサであることは言うまでもありません。ミサにおいて、この答唱句を歌うことこそ、この答唱句の本来のあり方なのです。 「すべての恵み」でテノールが、その最高音C(ド)になりますが、これが全体の祈りを高めていますから、それをよく表すようにしてください。 最後の rit. は、最終回の答唱句を除いて、それほど大きくないほうがよいかもしれません。最終回の答唱句は、むしろ、たっぷり rit. すると、この呼びかけに力強さが増すのではないでしょうか。 この日の第一朗読はサウルに追われたダビデが、サウルの陣営に忍び込んだにも関わらず、サウルのいのちを奪うことなく、槍と水差しを持ち帰ったことが読まれます。槍は勇者にとってはいのちと同じくらい大事な武器ですから、それを、眠っている間に取られたということは、まさに、死んでも死に切れない屈辱であったと思います。また、中東では水も貴重で、生命の源ともいえるものですから、水差しを撮られたことも同じことではないでしょうか?ダビデは、サウルのいのちを奪えたにも関わらず、神が油注がれたもののいのちを取ることを良しとしなかったのです。 福音でも、キリストは「あなたがたは、自分の量る秤で量り返される」(ルカ6:38)とおっしゃっています。第一朗読との関係で言えば、ダビデも確かに、自分がバト・シェバとの姦通の罪を犯し、バト・シェバの夫、ウリヤを殺させたにも関わらず、バト・シェバとの最初の子は死んだにも関わらず、自らのいのちが奪われなかったのは、サウルのいのちを助けたことが関係しているのかもしれません。もちろん、このことは、神さましかご存じないことではありますが。《この答唱詩編のCD》「典礼聖歌アンサンブル」『四旬節の聖歌』(詩編は異なります)【参考文献】『詩編』(フランシスコ会聖書研究所訳注 サンパウロ 1968)