年間第32主日(C年)の答唱詩編
113 主は豊かなあがないに満ち【解説】 詩編17は、神に逆らうものにいのちを狙われている作者が、神に、自分の正当性を訴え、神に対するゆるぎない信頼を歌ったものです。1節に当たる、表題には「祈り。ダビデの詩」とありますが、この詩編の内容から、ダビデがサウルにいのちを狙われていた時の出来事サムエル記上18章~27章)に結び付けられて、書かれたものと考えられます。 詩編唱は、第1・第3小節の終止音の四分音符(主に「、」)が、その前の全音符から、2度高くなっており、第2・第4小節では(主に「。」)2度下降しています。さらに、各小節の冒頭の音が順次下降しており(1小節目=A(ラ)、2小節目=G(ソ)、3小節目=F(ファ)、4小節目=E(ミ))、文章ごとのバランスをとりながら、ことばを生かしています。 この詩編唱は、当初、『典礼聖歌』(分冊第二集=31ページ)で、旧約朗読後の間唱として歌われた「主よ よこしまな人から」(詩編140)に用いられていました。現在、『典礼聖歌』(合本)で歌われる詩編唱の第3・第4小節が「主よ よこしまな人から」の答唱句として、第1・第2小節が、同じく詩編唱として歌われていました。 「主よ よこしまな人から」が作曲されたのは、典礼の刷新の途上だったため、新しい詩編や朗読配分、などが確立したときに、この曲は使われなくなり『典礼聖歌』(合本)には入れられませんでしたが、新しい答唱詩編である「主は豊かなあがないに満ち」の詩編唱に受け継がれました。【祈りの注意】 解説にも書きましたが、答唱句は、詩編唱と同じ歌い方で歌われます。全音符の部分は、すべて八分音符の連続で歌います。「豊かな」と「あがない」の間があいているのは、読みやすくするためです。また、「あがないに」と「満ち」、「いつくしみ」と「深い」の間があいているのは、楽譜の長さ(答唱句と詩編唱の)をそろえたための、技術的な制約によるもので、こらら赤字のところで、息継ぎをしたり、間をあけたり、赤字のところを延ばしたりしてはいけません。下の太字のところは、自由リズムのテージス(1拍目)になります(*は八分休符)。 主はゆたかなあがないに満ちー*|いつくしみふかいー* 答唱句は、その詩編のことばに対して「主はゆたかなあがないに満ち、いつくしみ深い」と答えます。詩編と同じく、八分音符の連続ですが、「主・は・ゆ・た・か・な・あ・が・な・い・に・満・ちー」のように包丁がまな板を鳴らすような歌い方にならないようにしましょう。 冒頭は、きびきびと歌い始め、1小節目の終わりで、rit. し、ほぼ、そのテンポのまま「いつくしみ」に入り、最後は、さらにていねいに rit. して終わります。全体は、P で、最後の答唱句は PP にしますが、それは、この答唱句の信仰告白のことばを、こころの底から、深く力強い、確固としたものとするためです。決して、気の抜けたような歌い方にならないようにしてください。 第一朗読のマカバイ記では、イスラエルの7人の兄弟とその母の殉教の一節が語られます。シリア王アンティオコスは、イスラエルに対して偶像礼拝と律法で禁じられた食物の摂取を強要しましたが、これを拒んだために、迫害を受け、このように殉教を選んだ人々がいました(マカバイ記上6~7章)。来年、列福式が行われる、ペトロ岐部以下の殉教者たちも、激しい迫害を受け、殉教の道を選びました。現代の日本では、いのちを落とすような迫害こそありませんが、なかなか、信仰を表明して貫くことが難しいのは確かです。しかし「世間並み」という価値観を捨て去るという殉教がわたしたちはできるでしょうか。 教会は、典礼暦で終末を迎えました。キリストの来臨をどのように待ち望むかを、この終末の期間に、もう一度、見つめなおすために、詩編も深く黙想したいものです。 《この答唱詩編のCD》「典礼聖歌アンサンブル」『聖週間の聖歌』(売り切れ、絶版・詩編は異なります)【参考文献】『詩編』(フランシスコ会聖書研究所訳注 サンパウロ 1968)