|
カテゴリ:答唱詩編
148 遠く地の果てまで
【解説】 詩編96は、やはり同じ答唱句で歌われる詩編98、および、次の詩編97とともに、王である神(主)たたえ、イスラエルだけではなく、すべての民・すべての国がその到来を待ち望むことが言われ、〈第二イザヤ〉とも表現や思想が共通することなど、非常に似た内容となっています。この詩編96は歴代誌上16:23-33に同じ詩が載せられており、「人々が神の箱を運び入れ、ダビデの天幕に安置し」(同16:1)たことと関連づけられています。 答唱句は、作曲者が「時間と空間を超越した表現」として用いる6度の跳躍で、旋律が始まり、これによって、「遠く地の果てまで」という空間的・地理的広がりと、そこに救いがもたらされるまでの時間的経過が表されています。「すべてのものが」では、バスが半音階で上行し、それに伴って和音も変化し、さらに、「ものが」で、旋律が再び6度跳躍し、「すべてのもの」という、量的数的多さが暗示されています。 「かみの」では、旋律が最高音になり、旋律とバスも2オクターヴ+3度に開き、王である神の偉大さが示されます。「すくいを」は、旋律が最低音(ミサの式次第のそれと同じ)となり、救いが地に訪れた様子が伺われます。「すくいを見た」では、アルトに臨時記号〔Des(レ♭)〕を用いることで、答唱句をていねいにおさめるとともに、ことばを意識することにもなっています。 詩編唱は、主音F(ファ)から始まり、上下に2度動くだけですが、1小節目では終止の部分で音が動き、ことばを強調します。4小節目は属調のC-Dur(ハ長調)に転調しことばを豊かに表現するとともに、そのまま答唱句の冒頭へとつなぐ役割も持っています。 〈第二イザヤ〉 イザヤ書40-55章を指す。イザヤ書は、その文体や思想などから「アモツの子イザヤ」という一人の預言者ではなく、彼の精神、思想を受け継いだ多くの後継者の加筆、著述がまとめられたというのが、現在の研究の一般的な見解。 【祈りの注意】 答唱句は、解説でも述べた、「時間と空間を超越した表現」として用いる6度の跳躍で始まりますから、この「遠く地の果てまで」という表現にふさわしく、祈りの声を表現しましょう。ユダヤから見れば、この日本はまさに遠い地の果てです。この日本にキリストによる救いがもたらされるまで、二千年近い時間もかかりました。しかし、わたしたちは確かにキリストによる神の救いを見て、それを信じているのです。この確信を込めて、答唱句を歌い始めましょう。そのために「果てまで」の付点四分音符は十分にのばし、その後一瞬で息継ぎをします。「すべてのものが」は、やや早目にすると、臨場感があふれます。最後の「が」は、その前の「の」にそっとつけるように歌うと、ことばが生きてきます。決して「ものがーと歌ってはいけません。「かみ」はアルシスの飛躍を生かします。最後の「救いを見た」は解説でも書いたとおり、アルトに臨時記号〔Des(レ♭)〕を用いることで、答唱句をていねいにおさめるようになっていますから、決してぞんざいにならないように、まことに、わたしたち一人ひとりが「神の救いを見た」という確信を込めたいものです。 詩編唱は、最初にも述べた、この詩編と思想的にも関連がある〈第二イザヤ〉の第一朗読を受けて黙想されます。ペルシャの王キュロスは、神が選んだ器でしたが、パウロと異なり生涯それに気がつくことはありませんでした。しかし、神の救いを証しするイスラエルにとって、イスラエルを捕囚から解放し、神殿を再建させたキュロスは、まさしく神のしもべでした。それにもまして、大切なことは、この出来事によってすべての人が神を知るようになるために、イスラエルは新たな道を歩み始めなければならなかったことです。わたしたちも、日々神のことばに生かされて、「その栄光をすべての国に語り、すべての民に不思議なわざを伝え」ることが、神から受けた使命です。詩編を先唱するかたは、特に第一朗読を味わい、できればこの前後の箇所も読んでいただきたいと思います。 最後に技術的なことですが、各小節で音が変わるところ、特に1小節目の最後のところで、間をあけないで滑らかに続けるようにしてください。 【参考文献】 『詩編』(フランシスコ会聖書研究所訳注 サンパウロ 1968 ) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005.09.22 07:46:54
|