|
カテゴリ:答唱詩編
67 神はわたしを救われる
【解説】 詩編41は、詩編集の第一巻の終わりに位置します(詩編1~41)。本文の最初は、詩編1と同じく「アシュレー=幸いだ」から始まります。また、最後の14節は、そのために地けられた「栄唱」です。 病の床に伏す作者は、詩編31と同じく、敵ばかりか親しい友にまで中傷されます(5-10節)が、確固とした信頼をもちながら、神に病気の回復を祈ります(11-13節)。これらの詩編(41および31)は、いずれも、キリストの受難(ユダヤ教指導者やローマの官警の中傷、弟子たちの離散)における嘆きに結びつくものでしょう。 この詩編の作者は、イスラエルの王の一人とする説があり、ヘブライ語の語法から、ダビデの時代にまでさかのぼるとも言われています。 答唱句は、珍しくテージス(小節線の後ろ)から始まります。旋律の音は、G(ソ)、A(ラ)、C(ド)の三つの音で、その他の声部の音も大変少ない音で構成されています。文末以外は、ほとんどが八分音符で、「すくわれる」と「たたえよう」で四分音符が用いられて、ことばが強調されています。とりわけ「たたえよう」では、アルトのAs(ラ♭)とテノールの最高音E(ミ)で、信仰告白のことばが高められています。さらに、テノールは冒頭から「いつくしみ」までC(ド)が持続して、神への信頼と救いの確信が表されています。 詩編唱は、3小節目でバスに臨時記号が使われ(Fis=ファ♯)、緊張感が高められますが、4小節目は5の和音で終止し、旋律も答唱句の冒頭と同じ音になり、落ち着いて終わります。 【祈りの注意】 冒頭は、指定の速度の、四分音符=72よりやや早めで始めるとよいでしょう。八分音符が連続しますので、メトロノームで計ったように歌うと、歌はもちろん祈りになりません。変なたとえかもしれませんが、ところてんを作る道具で、最初に、一気に押し出すような、そんな感じではじめるとよいでしょう。2小節目の「救われる」でやや rit. しますので、「わたしを」くらいから、わからない程度にゆっくりし始めます。「その」のバスが八分音符一一拍早く始まるところで、テンポを元に戻します。最後の「いつくしみをたたえよう」から、再びわからないように rit. して、最後はていねいに終わります。最後の「たたえよう」は、こころから神をたたえて、祈りを神のもとに挙げるようにしたいものです。 この答唱句は、「神はわたしを救われる」と現在形になっています。神の救いのわざ(仕事)は、かつて行われて終わってしまったのでもなく、いずれ行われるのでそれまで待たなければならないものでもありません。神の救いは、今も、継続して行われています。その、顕著なものが、やはりミサではないでしょうか。ミサは、キリストの生涯の出来事を思い起こす福音朗読と、その救いの頂点である主の過越=受難-復活-昇天を記念=を、そのときその場に現在化するものです。このミサが、世界のどこかで、必ず継続して行われている。それを、この答唱詩編は思い起こさせてくれます。そのことを思い起こしながらこの答唱句を歌うことが、祈りを深め、ことばを生かすことになると思います。 イスラエルも含め、古代文明では、病気はその人や、親・先祖の罪の結果と考えられてきました(現在でも、そういって、法外な値段でつぼを売りつけたり、多額の寄付を強要する集団があります。注意しましょう。)。キリストの過越は、これを払拭するものですが、それは、第一朗読にあるように、神ご自身が「わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする」からです(イザヤ43:25)。キリストによる、病気のいやしは、これらの実現と考えられるでしょうか。 詩編唱は、この、キリストによる病のいやしをこころに刻んで語りかけましょう。特に、詩編唱の3節は、イザヤの預言でも予型として語られるように(24b)、キリストの過越を思い起こしながら歌いましょう。この、詩編唱の3節は、後半が特にことば数も多いので、早めに歌います。4小節目はどうしても息継ぎが必要なら、楽譜の段が変わるところで息継ぎをします。 これらの、預言、そして預言の実現である、キリストの過越を述べ伝えることこそ、イザヤが預言している「彼らはわたしの栄誉を語らなければならない」ことなのです。 【参考文献】 『詩編』(フランシスコ会聖書研究所訳注 サンパウロ 1968) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.01.30 09:18:50
|