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カテゴリ:答唱詩編
123 主はわれらの牧者
【解説】 詩編23は、牧者としたの神に対する信頼と感謝を歌った詩編で、牧歌的な美しい表現に満ちています。その背景には、死の陰の谷であるエジプトから導き出し、荒れ野で岩を割って水を与え、緑豊かな牧場に導かれた、また、エジプトと言う敵の只中で最初の過越しを祝った、というイスラエルの救いの出来事があるようです。キリストは、この詩編23とエゼキエル34章を、ご自身に対する預言とされ、「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ10:11)と仰っています。なお、5-6節は、天のエルサレムでの神の宴の預言とされ、感謝の祭儀=ミサの予型とも言われています。 答唱句の前半「主はわれらの牧者」では、主に旋律が高音で歌われ、とりわけ「主」と「ぼく者」では、最高音C(ド)が用いられて強調されています。後半の「わたし」は旋律がD(レ)、「とぼしいこと」のバスがB(シ♭)といずれも最低音が用いられており、対照となる信仰告白のことばがはっきりと表現されています。答唱句の旋律の音は、ホームページの「答唱詩編」でも触れたように、ミサの式次第の旋律の音で構成されています。詩編唱は17~18「いのちあるすべてのものに」と旋律、伴奏ともに全く同一で、わたくしたちを養ってくださる神という、詩編ならびに答唱句の主題にしたがって詩編唱でも統一がはかられています。 【祈りの注意】 答唱句は、この詩編の主題である、信頼・感謝を十分に表すように、雄大に堂々と歌いたいものです。しかし、そこで忘れてならないのは「主は」、「われら」、「ぼく者、「わたし」などのアルシスをしっかりと生かすことです。これが生かされないと信仰告白のことばが活き活きしてこなくなり、ひいては、全体の祈りがだらだらとしたものとなってしまうのです。「ぼく者」の部分は、やや、テヌート気味で歌い、このことばを自らのこころにはもちろん、聞いている人のこころにしっかりと刻み付けたいものです。また、「者」の付点四分音符はテヌートしたままのテンポで延ばしますが、「わたし」に入ったら、すぐに冒頭のテンポに戻します。そして、最後は、本当にわたしには何一つ不足していることがないことを表すように、rit. して終わります。特に、最後の答唱句はていねいに終わらせます。 詩編唱は、第一朗読のエレミアが預言したように、イエスの時代の牧者が、羊の群れ(イスラエル)を散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかったので、その有様を深く憐れんで、教えられたキリストを預言するものとして歌われ、この、テーマで第一朗読と福音朗読の橋渡しをしています。 技術的な注意ですが、詩編唱2と4の4小節目、「まもる」と「いきる」は楽譜の八分音符だけにしか字がありませんから、どちらも、八分音符一つだけで歌い、「いきーる」「まもーる」のように 《この答唱詩編のCD》 「典礼聖歌アンサンブル」『待降節・降誕節の聖歌』 【参考文献】 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.07.04 15:14:15
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