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カテゴリ:答唱詩編
115 主は豊かなあがないに満ち
【解説】 詩編69は、詩編22と同じく主のしもべの嘆きの歌で、キリストの受難について、次のような箇所で引用されています。
なお、この詩編は元来、2-7と14-16が一つの詩、8-13と17-35が別の一遍、最後の2節=36と37節が典礼における補遺と考える学者もいます。なお、最後の2節は捕囚後の復興を求める、国民の嘆願と思われます。この最後の2節を除いて、全体は統一の取れた感動的な詩編とみる学者がほとんどです。いずれにしても、苦しむ主のしもべ=それは、キリストばかりではなく、キリストに従うゆえに迫害されるものの、魂の深みからの叫びと言えそうです。 詩編唱は、第1・第3小節の終止音の四分音符(主に「、」)が、その前の全音符から、2度高くなっており、第2・第4小節では(主に「。」)2度下降しています。さらに、各小節の冒頭の音が順次下降しており(1小節目=A(ラ)、2小節目=G(ソ)、3小節目=F(ファ)、4小節目=E(ミ))、文章ごとのバランスをとりながら、ことばを生かしています。 この詩編唱は、当初、『典礼聖歌』(分冊第二集=31ページ)で、旧約朗読後の間唱として歌われた「主よ よこしまな人から」(詩編140)に用いられていました。現在、『典礼聖歌』(合本)で歌われる詩編唱の第3・第4小節が「主よ よこしまな人から」の答唱句として、第1・第2小節が、同じく詩編唱として歌われていました。 「主よ よこしまな人から」が作曲されたのは、典礼の刷新の途上だったため、新しい詩編や朗読配分、などが確立したときに、この曲は使われなくなり『典礼聖歌』(合本)には入れられませんでしたが、新しい答唱詩編である「主は豊かなあがないに満ち」の詩編唱に受け継がれました。 【祈りの注意】 解説にも書きましたが、答唱句は、詩編唱と同じ歌い方で歌われます。全音符の部分は、すべて八分音符の連続で歌います。「豊かな」と「あがない」の間があいているのは、読みやすくするためです。また、「あがないに」と「満ち」、「いつくしみ」と「深い」の間があいているのは、楽譜の長さ(答唱句と詩編唱の)をそろえたための、技術的な制約によるもので、こらら赤字のところで、息継ぎをしたり、間をあけたり、赤字のところを 主はゆたかなあがないに満ちー*|いつくしみふかいー* 答唱句は、その詩編のことばに対して「主はゆたかなあがないに満ち、いつくしみ深い」と答えます。詩編と同じく、八分音符の連続ですが、「主・は・ゆ・た・か・な・あ・が・な・い・に・満・ちー」のように 冒頭は、きびきびと歌い始め、1小節目の終わりで、rit. し、ほぼ、そのテンポのまま「いつくしみ」に入り、最後は、さらにていねいに rit. して終わります。全体は、P で、最後の答唱句は PP にしますが、それは、この答唱句の信仰告白のことばを、こころの底から、深く力強い、確固としたものとするためです。決して、 第一朗読では「申命記」の律法に関する箇所が朗読されます。神のことばは遠いところにあるのではなく、実は、わたしたちのすぐ近く=わたしたちの口と心にあると言われます。見方を変えれば、それが、「だれがわたしの隣人なのか」ではなく「だれの隣人になったか」と言うことなのでしょうか。神のことば、キリストのよい便り=福音は、誰かに教えてもらって、必死に苦労しなければ、身につかないものなのではありません。「豊かなあがないに満ち、いつくしみ深い」主のことばは、実は、いつもわたしたちとともにある=インマヌエル、なのです。 《この答唱詩編のCD》 「典礼聖歌アンサンブル」『聖週間の聖歌』(売り切れ、絶版・詩編は異なります) 【参考文献】 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.06.26 17:37:12
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