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カテゴリ:答唱詩編
149 遠く地の果てまで
【解説】 今日のミサで歌われる詩編98は、前の二つの詩編96:97とともに、王である神(主)をたたえ、イスラエルだけではなく、すべての民・すべての国がその到来を待ち望むことが述べられ、《第二イザヤ》とも表現や思想が共通することなど、非常に似た内容となっています。この詩編98は詩編96に似ています。また、有名なマリアの歌「マグニフィカト」も、この詩編から取られたと思われるところがあります(詩編の2節や3節など)。 答唱句は、作曲者が「時間と空間を超越した表現」として用いる6度の跳躍で、旋律が始まり、これによって、「遠く地の果てまで」という空間的・地理的広がりと、そこに救いがもたらされるまでの時間的経過が表されています。「すべてのものが」では、バスが半音階で上行し、それに伴って和音も変化し、さらに、「ものが」で、旋律が再び6度跳躍し、「すべてのもの」という、量的数的多さが暗示されています。 「かみの」では、旋律が最高音になり、旋律とバスも2オクターヴ+3度に開き、王である神の偉大さが示されます。「すくいを」は、旋律が最低音(ミサの式次第のそれと同じ)となり、救いが地に訪れた様子が伺われます。「すくいを見た」では、アルトに臨時記号〔Des(レ♭)〕を用いることで、答唱句をていねいにおさめるとともに、ことばを意識することにもなっています。 詩編唱は、主音F(ファ)から始まり、上下に2度動くだけですが、1小節目では終止の部分で音が動き、ことばを強調します。4小節目は属調のC-Dur(ハ長調)に転調しことばを豊かに表現するとともに、そのまま答唱句の冒頭へとつなぐ役割も持っています。なお、《第二イザヤ》については、ホームページの「用語解説」をご覧ください。 【祈りの注意】 答唱句は、解説でも述べた、「時間と空間を超越した表現」として用いる6度の跳躍で始まりますから、この「遠く地の果てまで」という表現にふさわしく、祈りの声を表現しましょう。今日と先週の第一朗読では、救いがユダヤ人だけではなく、異邦人=すべての民にまで及ぶことが述べられています。ユダヤから見れば、この日本はまさに遠い地の果てです。この日本にキリストによる救いがもたらされるまで、二千年近い時間もかかりました。しかし、わたしたちは確かにキリストによる神の救いを見て、それを信じているのです。この確信を込めて、答唱句を歌い始めましょう。そのために「果てまで」の付点四分音符は十分にのばし、その後一瞬で息継ぎをします。「すべてのものが」は、やや早目にすると、臨場感があふれます。最後の「が」は、その前の「の」にそっとつけるように歌うと、ことばが生きてきます。決して「ものがー」と歌ってはいけません。「かみ」はアルシスの飛躍を生かします。最後の「救いを見た」は解説でも書いたとおり、アルトに臨時記号〔Des(レ♭)〕を用いることで、答唱句をていねいにおさめるようになっていますから、決してぞんざいにならないように、まことに、わたしたち一人ひとりが「神の救いを見た」という確信を込めたいものです。 詩編唱で歌われる「新しい歌」とは、新しく作られた歌というよりも、救いの体験によって新たに意味づけされた歌です。今日、黙想される詩編唱は、すべて、キリストの過越という、神の不思議なわざによって、全く新しい意味を持つようにされました。特に、わたしたちは、キリストの死と復活に結ばれる洗礼によって、すべてが新たにされています。この、新しいいのちの喜びを、この詩編に込めて歌いたいものです。また、最初にも書いたように、聖母マリアは、この詩編をはじめ、旧約聖書をもとにして「マグニフィカト」を歌われました。つまり、聖母マリアは、旧約聖書を暗記しておられたのです。わたしたちも、マリア様のこのような熱心さに倣いたいものです。 終末、第33主日の第一朗読と福音朗読は、まさに終わりの日についてが語られます。特に、福音朗読では「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」(ルカ21:17)とまで言われています。しかし、「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたし(キリスト)が授け」てくださり、「髪の毛の一本も決してなくならない」のですから、わたしたちは安心していることができるのです。今日の詩編は、福音にあるようなときを忍耐し、完成された神の国において、わたしたちが喜び歌う、賛美の歌ということができるでしょう。今日の詩編を味わうことは、神の国の完成にすでにあずかる喜びを与えられたことに他ならないのです。 《この答唱詩編のCD》 「典礼聖歌アンサンブル」『待降節・降誕節』(詩編は異なります) 【参考文献】 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.11.02 13:54:38
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