岡山後楽園の荒手(あらて)
12月5日(日)に岡山で自然の力セミナーをさせていただいた。主催の松本さんが午前中に、日本3大名園のひとつ岡山後楽園に連れて行ってくれた。 実に広大で見事な庭園だ。熊本の水前寺公園と同様に、園内にきれいな湧水がある。(それが流れて,滝になっている) 園内にお茶やお米まで栽培されており、水や食料などが得られ、ただ単に美しいだけでなく、安全保障についても考慮されている庭園だ。 お昼はその後楽園の「荒手」という店に予約してあるそうだ。 部屋に通されて、その見事な眺めにびっくりしてしまった。(↑足がしびた松本さんの小学生の娘さんの図) はじめに左上の窓際のテーブルで抹茶をいただいた。 若くて美しく気立てのよい若女将によると、ちょうど今が1年のうちでもっとも紅葉が美しいという。 窓の外の庭の向こうには堀があり、岡山城天守閣まで見える広大な眺めが広がっている。 食事のテーブルにつき振り向くと、これまた見事な屏風が。 若女将によると右下の一枚は、狩野派の絵師、狩野為信の現存する唯一の作品だそう。 景色といい、屏風といい、まさに部屋自体がひとつの美術館なのだ。 それもそのはずで、この部屋にはかつて今の平成天皇が泊まったことがあるというからびっくりしてしまった。 しかし、そのくらい見事なものだ。 料理も、庭先の紅葉をあしらうなど、彩もあざやかでとてもおいしかった。 立派な宴会場もあり、結婚式も行われるそうだ。 部屋や廊下にはさりげなく、いくつもの文化財がおいてある。 これもそのひとつ、寒山拾得図だ。 これは中国は蘇州寒山寺にオリジナルの石版がある拓本だ。 寒山寺はかつて一人旅で訪ねたことがある。 寒山と拾得は、7代も確執が絶えない家に生まれたが、その恨みつらみを遥かに超えてしまい、寒山拾得と並び称され、いつもこうして二人で描かれている風狂の僧だ。 寒山の詩に「指月不忘指」(月を指す指であることを忘れるな)という一節がある。 真実は表すこことができず、ただ示唆することができるのみということだ。 寒山拾得は唐代初期、ちょうどこのブログの石頭が作られた時代の人物だか、この教えが、宋代になってまとめられた「無門関」の不立文字(ふりゅうもんじ)などにつながっていく。 「不立文字」とは真実とは文字では伝えることができない。真実は常に生きており、知性や概念では伝えられず、自分で体験するしかないとする教えだ。 自然の力には経典や聖書のようなものが一切なく、「神様」という言葉もなく、仮に断って呼ぶだけと最初に聞いた時、「不立文字」を知っていた私はこれは本物かもしれないと思ったものだ。 言葉の厳密さはどうでもよく、実はその向こうにある経験こそが大切なのだ。