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テーマ:塾の先生のページ(7833)
カテゴリ:教育
塾のやっていることは「教育」ではない、という意見を様々なブログで見かけることがある。
果たして私たちの行っていることは「教育」なのか、それとも似て非なるものなのか。 結論を言うと、私は「私たちのやっていることは教育である」と思っている。だから「教育ではない」という意見を聞くと不思議でしょうがない。 「教育」とは限定して考えるべきものだ。「家庭教育」もあれば、「学校教育」もある。自動車学校には「自動車学校の教育目標」があり、調理師学校には「調理師学校の教育目標」がある。 教育の目標は大雑把に言えば、「教育を必要としない人を育てること」にあると思う。 自動車学校の教育目標は「免許を取らせ、一人で交通ルールを守り、自動車の運転ができる人を育てる」ことであろう。 「教育」という言葉に、壮大なスケール感を持っている方もおられるやもしれないが、躾レベルの「あいさつをする」「履き物を揃える」「返事をする」というのも教育である。 ゆえに「私塾の教育」や「私塾の教育目標」だって存在するであろう。もちろん「○○塾の教育目標」といったように各塾で色々あってもいい。そこが多種多様になるのが私塾の魅力ではあるまいか。 「とにかく合格させてナンボです」というのであれば、合格させるというのがその塾の教育目標であろう。 それが「教育」でなければ、何なのだろうか。「顧客サービス」か?「教育」と言った方がずっとすっきりはしないだろうか。 理解できる部分もなくはない。世間には「いいかげんな塾」というのもある。隔離された世界で、何の努力もせず、お題目のように「教育」を唱えるいまいましい塾経営者が存在する。 そのような連中への「怒り」と「自らへの戒め」として言うなら、気持ちは理解できる。 しかしそれでも、そんな塾ほっといて自分の塾の理想を追求すればよいのではないかと思う。 私はずっと教育をやってきたと思っているし、これからもそうでありたい。そしてさらによい教育を追求するために、こんなことまでやろうとしている。少しでも質のよいものを提供したいからだ。 ちなみに私は塾講師をやることに誇りを持っている。何のコンプレックスもない。 旨い寿司を食いたいと客はそう思い、店は旨い寿司を追求する。様々はやり方があるだろうが、客は旨い寿司が食えてよい気分になれればそれでいい。よければ店が流行るし、悪ければ閑古鳥がなく。理屈はいらない。 猫ギター先生は「旨い寿司」を追求しておられる。自分を磨き、魅力を高め、目の前の生徒に全力を尽くす。美学のある美しい生き方だ。かくありたい。 彼がお金を儲けているかどうか、それは知らない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
March 27, 2006 10:13:11 PM
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