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鬼道場日誌...(時々,温泉)

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2010.09.12
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カテゴリ:稽古

昨日は、仕事の都合が、あったので、鬼道場は、終わりごろ行ったので、ブログに載せるような目新しいことは、是といってなかった。

鬼道場30周年記念誌、面白いこと満載なので、紹介したいことが沢山あります。

        IMG_0298.JPG

今回は、武道専門学校教授 内藤高治先生についてのことを一部、引用してみます。

 

「ミチノタメキタレ」

内藤高治が、大日本武徳会本部の教授となったのは明治32年9月のことである。

内藤の決意をうながしたのは「ミチノタメキタレ」という一通の電報だった。

発信人楠正位。京都裁判所長で武徳会設立発起人の一人である。

この頃、内藤高治は、警視庁剣術世話係のかたわら牛込原町で道場「養真舘」を持ち、東京専門学校(早稲田大学)の撃剣師範でもある。

「ミチノタメキタレ」という電報は、これらのすべてを投げ捨てるほどに彼のたましいをゆさぶった。

内藤高治と共に武徳会本部の教授となったのは、三橋鑑一郎、佐々木正宣。 内藤を楠正位に強く推したのは三橋鑑一郎だったという。

武徳会本部での講習は武徳殿の竣工においおいさかんになりつつはあったというものの、武術教員養成所が発足してからも、明治時代はそれほどのことはなく、稽古をするのはせいぜい二,三十名ぐらいのものだったらしい。

内藤は武徳会に少年部を設けて子どもたちを熱心に指導した。

実子に恵まれなかったせいか、これらの子どもたちをとくに可愛がり、かれらとの稽古では、いつも負けてにこにこしていた。

武徳会本部、なかんずく武専で打ち込み、切り返しの基本を徹底して行い、かかり稽古で鍛え上げた。形を重視したこれらは、内藤の指導方針に 基づくもので 正しく 大きく、あらん限りの気迫で立ち向かうことを 喜んだ。

かかり稽古でも、武専の生徒が、小手や胴を打つ事を好まず、五尺四寸、二十四貫の体躯で「まだまだ、まだまだ」とひと押しに気根で圧迫した。

「面を打ちなさい。面を打つのが一番難しいのだから。面さえちゃんと打てれば、他のところはいつでも、打てます。」思い切って、正面に打ち込んだときだけ「ウン」とうなづいた。

「小手先でよく当てる稽古など、大嫌いで試合の上手な某君などは、すっかり疎んじられ、卒業までついに うだつが上がらないようだった」(佐藤才吉=第十六期生・昭和五年卒)

剣道を通じて、精神を養うというのが、彼の志だったとすれば、「技を磨く」ことはよしとしても、「技を弄する」ことは 彼のもっとも嫌うことだったに違いない。

内藤高治が、非常に礼儀に厳しく、自らも実践したことは、よく知られる。自宅を訪れた客が帰る際には、決まって玄関まで見送り、相手が誰であろうと (むろん武専の生徒でも)正座して、深々と頭を下げた。自宅に限るわけではない。路上でも 一旦停止して 礼を返した。それも生徒が頭を上げてみると、内藤の頭はまだ 下がっている。 というふうで生徒は、うろたえてもう一度、礼をやり直さなければならないほどの 丁寧さだった。

内藤高治は、しばしば「武士はかくあらねばならぬ」という言い方をした。礼儀にとりわけ厳しかったのも、武士は・・・ならぬ、の観念があったためかもしれない。

例えば 「火はあたるものである。武士は手を火にくべてはならない」 とか

「酒をつぐのに徳利を 逆手に持ってはいけない。それは武士が介錯するさい刀に水を注ぐときの持ち方である」 とか。

厳冬でも メリヤスのシャツやズボン下を着ることを禁じた。身体を鍛えるという意味もあったであろうが それよりも 頭からすっぽりかぶる式のもの、両足を突っ込んで 引上げる式のものは、このとき スキができるからである。

竹刀や道具は 必ず自分で持ち、武専の生徒はむろん 内弟子にさえ 持たせなかった。自分で持つべきものを 人に持たせる不遜を 恥ずべきとしたことにもよるが、 竹刀や道具を手放すなど 両刀をひとにゆだねるのと同じで、武士にあるまじき行為としたことによる。

彼亡きあとも、武専では、この遺訓が長く守られた。

「武専では、主任教授以下、面、小手を左脇に、竹刀袋を右手に下げて静かに道場を入退場され、防具の着脱をひとに手助けさせるというようなことは決してなかった。(池田勇治=第23期生.昭和12年卒)

生徒に自分の道具をかつがせて先生は手ぶらで歩くといった風景は武専では見られなかった。

 

「金は、いつでも内藤さんよ、袖からボロが下がり藤(内藤家の家紋)」という自作の狂歌はあまりに有名である。

金銭に淡白だった。 淡白すぎて質素だった。

質素な暮らしの中で彼が愛したのは、骨董と酒である。

ひまが見つかると、よく古道具屋を歩き、ステッキやひょうたんを求め、鼻のあぶらをこすりつけては袖で磨いた。

熱中すると、寝床の中まで持ち込んで夜通し磨いているというありさまで、このため「袖がすぐやぶれてしまう」と奥さんが愚痴をこぼした。

酒はよく飲んだ。「先生はどれくらい召し上がりますか」と訊いた者がいる。

「一日に三斗飲みます。」「三斗も?」「はい。朝昼晩の三度ですがね」

結構、洒落もうまかったのである。

「ある年末の雪の降る寒い日でした。私は学校は休みになっていたが、帰郷せずに小使い室で火に温まっていた。小使いさんはどこかに出かけて留守だった。

そこへ先生が傘をさされ、白革緒の下駄で小走りに来られた。

懐から一升びんを取り出して『おすそわけだといって小使いさんに渡してくれ』ということなのだった。

門弟のかたもいるのにわざわざ雪の中を先生が届けにみえなくとも、とその愛情に胸をうたれた」(長田為吉=第十六期生.昭和五年卒)

 

内藤高治が最も愛したのは人(ひと)だった。

 

内藤高治先生は素晴しい!!言葉では言い表せない位感動した。

しかし自分のボキャの少なさに。。。ショック雫雫

 

 






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最終更新日  2010.09.12 12:06:59
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