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2010/10/15
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お父さん。ありがとう。私、お父さんの娘で良かったわ。。。

って、ちゃんと伝わったやろか。
言葉に出した時はもう、人工呼吸器のお世話になっていつも寝てたからなぁ。
けど、薄目の奥の瞳がちょっとだけ動いたし、わかってくれてたやんな。

小さい頃はよう怒られたな。けど、面白い話をしたり遊んでもくれたね。
お酒が好きで飲んでる内はええけど、呑まれたら人に迷惑もかけたね。
そんなお父さんが私は嫌いやった。

萬斎さんの子どもの頃と一緒で、家にお父さんがいるかいないかでは大違いやった。
いると息苦しいし、いないとものすごー解放されてた。
無口でうっとうしいし、ダラダラ過ごしてたら口うるさいし、気の休まる時がなかったわ。
すぐ怒るし。
高校生の頃は無視してたなぁ。何言われても返事せえへんかった。

そやけど、いつも私の味方でいてくれたのは知ってる。
私が言いたくないことをお母さんに突っ込まれてると、「もう、ええやろ!」と鶴の一声やったね。
ものすご、ありがたかったで。あの時。

私の結婚式の時はお酒バクバク飲んでベロンベロンに酔っ払ってボロボロ泣いてたな。
情けないやら恥ずかしいやら嬉しいやら。。複雑な心境やったわ。
ダンナのことは最初嫌いやったやろ? 私を取られたとずーっと目の敵みたいにしてたもんな。
けど、今はダンナが来るのを楽しみに待ってくれるようになったね。

一緒に暮らしてた頃はあんなに毛嫌いしていたお父さんやったけど、今は大好きやで。
お父さんが病気になってから、気になって気になっていてもたってもいられんかった。
自分がこんなにお父さんに依存しているとは、正直思わんかったわ。
自分でもビックリしてますヮ。
時間を見つけてはお父さんに会いに行ったな。 顔を見るだけで安心した。
けど、一回だけお父さんを怒ったことがあったね。
シャント手術の後で、安静にしてなあかんのに、ベッドから起き上がろうとしたり、シャントのガードを外そうとしたりして、「そんなことしたらアカンやろ!いう事聞かへんのやったら、もう来(こ)うへんで!」って、言うてしもた。
お父さんの病気がそうさしてるのにね。 認知症状があるのを知ってたのに。
痛みと苦しみとでもがいてたのに。
なんで、怒ってしもたんやろ。アホやな、私。可哀想なこと言うてしもた。
ごめんなお父さん。堪忍してな。

最期はお兄ちゃんや私が来るのを待ってくれてたんやね。
しんどいのに、もうおじいちゃんやおばあちゃんのところに逝きたかったのに、待っててくれたんやね。
ありがとう。ほんまにありがとう。
お陰でお父さんを看取る事が出来たわ。最期まで私らのお父さんでいてくれたんやな。
最期は元家族だけで過ごせて嬉しかった。
お父さんとお母さんとお兄ちゃんと私。親子4人水入らずで最期の瞬間までいれて、ほんまに良かった。

お通夜の晩は、お父さんの棺の傍でビールのんでお兄ちゃんと昔話に泣き笑いしてたわ。聞いてたか?
飽きずにお父さんの顔ながめては、「ありがとね」って言うたけど、聴こえてた?

私、お父さんの指の骨を拾ったよ。 最期まで握ってた右手やったしね。
紙の六文銭の他に千円札も入れたで、ちゃんと川は渡してもらえたやんな?
「これ、紙の銭やんけ~。」って舟渡に言われても困らんように入れたんやで(笑)
大きな顔して乗ったらええわ。
きっと、川の向こうにはおじいちゃんとおばあちゃん。それから、クロと風子も待ってくれてると思う。
きっと、2匹が「こっちやで~」って道案内してくれると思うわ。
私、こっそり頼んどいたさかいな。

もう、お父さんとしゃべることは出来ひんけど、いつもお父さんがそばにいると思てがんばるわ。
私、ほんまにお父さんのこと好きやってんな。恋しいてかなんわ。また、夢に出てきてな。
今までほんまにありがとう。 痛みや苦しみから解放されたし、これからゆっくり休んでや。



10月11日(月)午前9:20
父が他界しました。

最初の入院から、ちょうど5ヶ月。
長いようで短い闘病生活でしたが、最期は苦しむことなく、自然と脈拍が弱くなり息を引きとりました。
満78歳。 男性の平均寿命は確か79歳だと記憶してますので、そう早くもないですね。
入院の前日まで好きなビールを飲んでいましたので、父も悔いはないと思いますが、出来るなら入院中にもう一度アルコールを口に含ませてあげたら良かったな。。と思います。

誤嚥でむせて、7月中旬ころから食事は口に出来なくなっていたので、それまでに飲ませてあげたら良かった。
今となっては仕方ないことですけど、それだけが兄も私も心残りです。

9日に血圧の上が100前後だったので心配していたら、10日の朝に「血圧が下がっているので来て下さい」と病院から連絡がありました。
生憎この日は兄がどうしても抜けられない用事があって、夜しか帰って来れない日でした。
おまけに父と母の結婚記念日だったし。
父に「今日は何の日か知ってる? お父さんらの結婚記念日やで。こんな日に死ねるか?」そう言って意識のない父を励ましていました。
看護士さんや先生が精一杯のことをして下さって、なんとか血圧も上が90台に回復し、病院に泊まらなくても良いとの事でしたので、夕方、母も私もそれぞれの家に帰りました。

そして11日の朝、母と前日の夜に帰ってきた兄が早めに病院にいった所、父の血圧は40台になっていて、すぐに私に連絡してくれたんです。
私が病室に入った時は血圧が20台になっていて、そうこう言っている内に血圧測定不可状態になり、機械のアラームは鳴りっぱなし。
看護士さんが慌てて先生を呼んでくださり、「まぁ、ずっと状態が悪かったですからね。」と、退室され。。
ということはもう手の施しようがない、という事。
婦長さんが部屋に残って下さって、「体触ってあげてね。いっぱいお話してあげてね。」と言われて。。

最期は脈拍が0になって、息を引きとりました。
後は、むなしく人工呼吸器が酸素を父の肺に送り込んでいる音が響くのみでした。

私が病院に着いてからほんの15分後の事だった。
兄が帰ってくるのと、私が到着するのを待っていたように。。
最期まで子どものことを思ってくれていたのかと思うと、胸が苦しくなります。

看護士さんのエンゼルケアを見守り、私たち家族も体を拭いてあげました。
病気をしていたけど、顔もツヤツヤで綺麗な体だった。
ホントに最後の最後まで傍にいて見守る事が出来て良かった。

父の肉体はないけれど、私の中に父は生きている。
これからは、ひとりになった母を大事にしていきたいと思っています。






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最終更新日  2010/10/15 10:25:57 PM
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