道の途中で
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この日は、広島最終日。 午前中の新幹線で帰路に着くことになっていました。 広島駅で友だちと待ち合わせをして、 その前に「記念公園」に行くことにしました。 私の泊まったホテルの近くには日本銀行広島支店がありました。 ここは爆心地から380m。 外形は残ったものの内部は破壊され、42人の犠牲者が出たそうです。 このような表示がされていますが、爆心地として島外科にも 表示があるそうです。 後で調べましたら爆心地は島外科病院の玄関から 僅か東南約25mの地点だそうです。 爆発点の温度は100万度以上にもなり、 爆心直下では3,000度から7,000度の超高温が 三秒間くらい続いたと考えられているそうです。 鉄の溶ける 温度は約1,500度。太陽の表面温度は5,700度。 太陽の温度より高いことになります。 ですから、一瞬にして焼きつくされてしまったことが判ります。 平和公園に着いてその前に平和記念資料館に行きました。 写真はジオラマですが、1枚目は原爆投下前日。 2枚目は原爆投下後。 これは原爆投下後の写真。 1夜にして何もかも無くなったことがうかがい知れます。 フラッシュをたかなければ写真可でしたので撮影してきました。 時間があまり無かったので、ざっと回ってきましたが 原爆の悲惨さを見るにつけ時間があったら もっと見てきたいと思いました。 こちらのページで平和記念資料館と同じ順路で 見ることが出来るようです。 ■広島平和年記念碑 1949年8月6日に公布された広島平和記念都市建設法の 第一条には「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、 広島市を平和記念都市として建設することを目的とする」とあり、 この法律に基づいて平和記念公園や原爆資料館、平和大橋などが 建設され原爆慰霊碑はその中心にあたるものだそうです。 私がここを通った時には外人さんも来ていました。 ■原爆の子の像 原爆投下後、10年も経ってからひとりの少女が 亜急性リンパ腺白血病と闘い、死んでいき自身の全快を祈って 「千羽鶴」を折りつづけていたのだけれどもその願いは 叶えられなかった。少女の死をきっかけに、原爆の犠牲となった 多くの仲間たちの霊をなぐさめるとともに、戦争の悲惨さを訴え、 世界に恒久平和を呼びかけるために「原爆の子」の像を作ろうと、 広島の子どもたちが立ちあがったそうです。 ■原爆ドーム 原爆ドームはもとは広島県産業奨励館として4階建ての当時としては モダンな建物だったそうです。 原爆により、壁などが崩れ落ち、風化が進む中、 保存か撤去の議論のなか昭和41年に保存が決定されたそうです。 私が見た時に「国の長いの平和を願う多数の人々の寄金によって 補強工事を施し、これを永久に保存する 昭和42年8月6日 広島市」 と表示されたものを見ました。 私が生まれた年のことです。 2枚目の写真の方が先に撮ってあるのですが、 ライトアップされたそのものは身震いがする くらいのものでした。 原爆ドームの前の橋のたもとで核兵器廃絶の署名と募金を していました。 署名をし僅かばかりですが募金させていただきました。 私がのんびり回っていたら、友だちからメールが来て 慌てて駅に向かいました。 広島を後にし、途中下車をして帰路に向かうことに・・・。 -つづく-
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