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カテゴリ:うふふ日記
東京都心に27センチもの雪が積もった。
わたしのところは都心のはずれだから、もう少し積もった。 これほどの積雪は、45年ぶりのことだと云う。 週末でもあったから、いつになくおおっぴらに雪をよろこぶ。 寒さのきびしい土地の、ことに山間部を考えたら、本筋からずれるようだけれども、都心の場合、雪でもっとも困るのは、交通機関の乱れである。雪は降るたび、ひとの足を妨(さまた)げる。雪に不馴れな分、都心のひとの困り方には、目を覆いたくなるものがある。それで、とてもではないが、雪、雪、ばんざーい!などとは叫んだりできない。東北出身の友だちにそっと、雪うれしさのメールをするにとどめてきた。 土曜日の朝早くから、あたりは銀世界に変わっていた。めずらしく粉のように細かい雪が、これまためずらしく吹雪(ふぶ)いている。窓越しに眺めていると、あっという間に雪かさが増してゆく。 友人が、「息子がかまくらをつくりたがってね」と云っていたのを思いだした。このまま降り積もれば、かまくらづくりも夢ではないかもしれない。 その昔、わたしが十(とお)くらいであった昔、東京に大雪が降った。 父は生まれも育ちも北海道であったから、朝の早よから装備を整え(父は毛皮の耳当てのついた帽子をかぶっていた)雪かきにかかり、弟とわたしが起きだしたときには、当時空き地だった家の前まで、雪の道ができていた。少しの雪が積もっても、わたしたち姉弟(きょうだい)は、雪だるまをつくり、雪に遊んだものだが、それも両親、ことに父の雪うかれの後押しがあったおかげだ。 東京の雪だるまは、どうかすると土混じりになったり、そうでなくとも、すぐと溶けていなくなってしまう。わたしが好んでこしらえたのは、雪だるまのきょうだいだったが、ならべてつくった雪だるまのきょうだいたちが、学校からもどるころにはふたり半くらいになっていた。長男から8男までの大家族なのだが、末に向かうほど小振りにつくるため、このような悲劇に見舞われるのだった。そうだ。雪だるまとのあっけない別れは、幼いわたしには悲劇としか云いようがなかった。 さて、わたしが十だとすると、弟は九(ここの)つということになるが、その年、ふたりは、東京校外の実家前に、かまくらをつくったのである。後(あと)にも先にもかまくらは、つくるのも入るのも、そのとき一回きりだった。雪まみれになりながら、ふたりとも汗だくになった。掘る雪はどこまでも白く、どこまでも豊富だった。でき上がったかまくらは、ふたりがまるまってならんで坐るといっぱいのこじんまりとしたものだったが、それでもかまくらにはちがいなかった。母は、「おめでとう」と云って、湯を注いだ懐中汁粉を運んでくれた。 そのかまくらが次ぐ日、どんなことになったかは、記せない。記憶から消えてしまっているからだ。かまくらのなかで、窮屈に弟と肩寄せあって食べた汁粉のところまでおぼえていれば、それでよかった。 週末ニュースでくり返し伝えられた東京の、45年ぶりの大雪というのは、あのかまくらのときだったのだろう。そのときから45年の歳を重ねたわたしは、雪だからと云って外に飛び出したりはしない。窓辺でじっと雪の降るのを眺めている。出かける予定もなしにして、ひたすらぼんやりしていた。雪は等しくひとや小鳥、動物の目に映り、雪はどんな地面も、どんな草木も覆う。そうした目的を持って降るのではないにせよ、雪はこの世を浄めてゆく。 日曜の朝カーテンをあけると、おもては前日とは打って変わって、雪に輝いている。雪はやみ、日が燦燦(さんさん)と照っている。かつても悲劇を思いださないこともなかったけれど、雪は分厚く、まだ、子どもたちのつくった雪だるまたちは無事だろうと思い直す。 昼過ぎ、旅仕事からもどった夫が、玄関に荷物を置くなり雪かきをはじめた。前日からのぼんやりをまだつづけていたわたしが、ふと我に返ると、2時間以上が過ぎていた。夫はまだ雪と格闘しているらしい。2軒先のあたりに姿をみつけたので、声をかけると、「雪遊びだな」と笑った。 「ご苦労さま」 45年ぶりに降った雪は、わたしにぼんやりする時間をくれ、夫には近隣を思う機会を与えたのかもしれなかった。 雪から2日たった月曜日の午前中、 近所で雪だるまの無事を確認。 葉っぱの目、小枝の口。 壊れたカチューシャと葉っぱの蝶ネクタイも、 洒落ているでしょう? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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