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カテゴリ:うふふ日記
ごはんを食べにやってきた若い友だちが浮かない顔をしている。
いろいろと不調で……、と話しはじめるその様子が気にかかり、後片づけの手をとめて、友だちの前に坐りなおす。わたしとしたら、自分のなかのひきだしをあけ、友だちの前に過去の不調の記録を全部ならべて見せようというほどの心持ちである。 そうだ。わがひきだしには「不」のつく記録がごっそり入っている。 どこかのひきだしの隅っこに成功例らしきものをみつけたとしても、用心しなければいけない。得意になってひっぱり出しても、裏面にはきっと不行き届き、不徳といった「不」の連中が貼りついている。そのことはとりもなおさず、わたしの数少ない成功が、さまざまの「不」にもめげずたくさんのひとの助けによってやっとのことでひきだしに納まったことを意味している。 さて、友だちは云う。 「変わりなく日日の仕事をこなし、変わりなくひとと接しているのに、いつものようにゆかない」 それをことばどおりに受けとり(ひとのはなしを聞くとき、ともかくことばどおりに受けとることが大事、と心得ている)、聞いたことばを反芻(はんすう)する。 「変わりなく……、日日の仕事をこなし……、変わりなく……、ひとと接しているのに……、いつものように……ゆかない」というふうに。 反芻の効能だろうか、不意に「変態」ということばが胸に置かれた。へんたい。変態じゃなくて、変態。……何云ってるんだろう、ええと、昆虫やカエル、植物が、成長のなかで異なる形態をとることをさす変態である。ほら、オタマジャクシがカエルになるような、あれだ。 「変態なんじゃないの?」 友だちに直球を投げてみた。 案の定「ぼくのどこが変態なんですか?」という顔をしたから、オタマジャクシに登場ねがって、説明す。 「あなたが変化してるんじゃないかってこと。敏感なひとは、それを感じとって怪しむだろうし、わけがわからなくて苛立つこともあるんじゃないかな。変態の時期をどう過ごし、どこにつなげるかは自分で決めるしかない。ひとつだけはっきりしてるのは、カエルは、二度とオタマジャクシにはもどれないってことだよ」 変態、変態と云いながら、家じゅうのみんなで友だちを囲み、日本酒を飲む(高校生は、お茶)。変態おめでとうの意味の酒盛りだったが、そのことは伝わったろうか。伝わらなくてもかまわない。ただただ、わたしは友だちの変態を見守ろう。 翌日、ソチ冬季オリンピックの閉幕を迎えた。 やけに熱心に競技を追いかけている自分に驚きつづけた2週間だった。いろんなことを気づかせてもらった。 誰もメダルが好きだけれど……、メダル獲得はうれしいものにちがいないけれど……、メダルに納まりきれない事ごとに刮目(かつもく)する、その連続だったようでもある。 閉会式を前に放送の「ソチ冬季オリンピック・ハイライトシーン」なる番組をテレビで観ながら、わたしはまた変態を考えている。友だちを「変態だ」と決めつけたことから、同じことばを自分自身に当て嵌(は)めているのである。 かつてわたしも幾度かみずからの変態に気づいたことがある。ひとつひとつ数えたら、10本の指では足りないような気がする。ところが最近はどうだろう。この歳になったから、もう変態などはないと、高を括っているのではないか、わたしは。 頭のなかがこんがらかってきた。こんなときは、手仕事にかぎる。 夫の実家で穫れたもののほか、ほうぼうからいただいてたまった里芋をならべたて、ひとつひとつ皮をむいてゆく。 ソチ冬季オリンピック。里芋。変態。 何の関係もないように見える3つのものが手を組んで、わたしに何かを促す存在となっている。里芋はピンポン玉大のコロッケになった。テレビには、フィギュアスケート・フリープログラムで最高の演技を終え天を仰ぐ浅田真央選手の姿が映っている。 ———この春、わたしも変態しなくちゃ。 しきりにそう思わされている。 〈つづく〉 雪のなかのブロッコリ。 埼玉県熊谷市の夫の実家の 畑の様子です。 「お互いがんばろうね」 としみじみしました。 東京にまで降り積もった雪が、 ソチ冬季オリンピックに気持ちを近づかせて くれたようでもあります。ね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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