前回、友人の有り様(よう)を「変態」、「変態」と書いていたら、すっかり変態づいてしまった。何を見るにも、「変態」を想像する。すれ違う散歩の犬さんに「変態は?」と訊いて吠えられる。
われながら頓狂(とんきょう)なことである。これはきっと、わたし自身の「変態願望」である。
ひとは願望を持つだけで、そこへ近づくもののようだ。
願望を持つだけでそこへ近づくものだとすると、願望の持ち方には気をつけないといけないことになる。そこで、わたしはしばし、「変態」に願望を持つことはどうだろうかと考える。
……いいんじゃないかと思えた。
「変態願望」を持つことを支持したい。そう思った。
とは云え、とつぜんひと皮剥ける(脱皮である)わけはなく、また、あたらしい手足が生えてくるわけではない。
つまらないなあ……。
ヘビやカエルの向こうを張って、これまでのわが変態を省みるうち、そんな時期には、がらりとあたりの風景が変わることがあったのに思い当たった。気がつくとまわりの人間関係が変わっていたとか、仕事の内容が変化していたとか。みずからの「変態願望」は支持したいが、大がかりな変化を受け入れる覚悟はあるのかと問われたら、威勢よく「ありますとも」とは答えにくい、いま。
「ちょっとならありますとも」、「少しずつなら、かまわないです」というのが正直なところだ。
そういうわけなので、いつものやり方を少し変えることにしてみた。
遠まわりをして目的地まで行く。
甘いものを食べる。
ヒョウ柄の服を買う。
仕事の順番を変える。
夜道でスキップする。
やり方を少し変えるだけで、ふだんしないことをしてみることで、「変態」とまではゆかないものの、自分の殻を壊す練習ができたような。
庭の梅の、蕾。
雨上がりの様子です。
花の色は、薄紅。
梅は褒められようとして咲くのでなく、
「変態願望」なんかというおかしな考えも持たず、
ただひたすらに咲くのです。