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カテゴリ:うふふ日記
父逝く。
ごく縮めて記すなら、このような最期(さいご)だった。 3月12日、昼過ぎ。 近所の中華料理店にひとりで出かける。 めあては老酒(ラオチュウ)と餃子である。母を誘ったが、母は「餃子はけっこう」と云って留守番宣言をす。 老酒をひと口飲み、餃子をひとつ食べたところで倒れる。 持病の大動脈瘤が破裂、急性貧血で眠るがごとき死だった。 いろいろなことがあって(検死とか)、父は家にもどらなかった。 弟が父に会いに行き、わたしは実家に母と残る。 「あなたは、おとうちゃまのベッドで寝なさい」 夜になり、母が何を思ってかこう云ったので、その通りにする。父の寝台には、父の匂いが染みこんでいた。思えば……、子どものころからこの日まで、父の寝台にもぐりこんだことなどなかった。枕に頭をのせ、横を見ると小机に雑誌「ユリイカ」がのっている。2006年の藤田嗣治(ふじたつぐはる*)特集号だった。美術の愛好家で、みずからも日曜画家であった父は、昔から藤田嗣治の作品をこよなく愛したのだった。あらためて、藤田を研究していたのだろうか。 雑誌には2008年11月−2009年1月開催の「没後40年レオナール・フジタ展」(上野の森美術館)のチケットの半券と、新聞切り抜き2点、それに「大分麦焼酎」の領収証(2013年)がはさんであった。新聞の切り抜きは、どちらも長きにわたり愛読していた毎日新聞のもので、ひとつは藤田嗣治の大作修復を総指揮したフランス・エソンヌ県のアン・ル・ディベルデル・フジタコレクション担当学芸員のはなし(2008年)。ひとつは「ユリイカ」編集長による編集余話(2006年)で、「『ユリイカ』は、ギリシャ語で『我発見せり』という意味」というところに赤い線が引いてある。 切り抜きはそれぞれ、「没後40年レオナール・フジタ展」と、藤田を特集した「ユリイカ」に関連しているものと思われる。なんだかたのしくなってきて、わたしは電灯のひかりをたよりに、夜更けまで雑誌と切り抜きを読んだのだ。 父が、父らしく逝ったことがわたしのこころを明るくしていた。同時に、わたしのなかに、父から受け継いだものがたくさん生きて蠢(うごめ)いているのを感じることができた。それにそれに、寝台から見渡せる父の書棚にならぶ膨大な書物は、わたしを今後、あたらしい世界に導くだろう。 この世とあの世に隔てられはしたが、不思議だ、父とのあいだが縮まった。 次ぐ日、弟のお嫁のしげちゃんと、わたしの長女が、「おとうちゃまが夜いらしたような気がする」「わたしのところにも、おじいちゃまが来たよ」と話し合っていた。 「ふんちゃんのところは?」「お母さんのところへ会いに来た?」としげちゃんと長女が同時に訊く。 「わたしのところ? 来なかったよ。しげちゃんたちのところに向かうとき、『どうしておまえが、ぼくの寝台で寝てるんだ?』と顔をしかめてわたしの上空を通過したかもしれないな」 * 藤田嗣治(レオナール・フジタ) 1886−1968 東京都出身の画家・彫刻家。 1913年(26歳)パリに渡る。モンパルナスの裏通りの同じアパートには、イタリアからやってきたモディリアニがいた。パリの寵児となるも、日本画壇は藤田に冷淡だった。さらに戦争中、戦争画を描いたことを戦後画壇に責任追及され日本との亀裂が決定的なものとなる。 藤田の業績が日本において真の意味で見直されたのは、近年と云ってよいように思う(山本記)。 父は満90歳で逝きました。 父とは顔を合わせると本のはなしをし、 展覧会に行き(連れて行ってもらい)、 大人になってからはたくさん酒を飲みました。 これからは、読むたび、鑑るたび、飲むたび、 父がやってくるでしょうね。 それを考えると、 おもしろく読み、 自分勝手に鑑賞し(ひとに合わせたりせず鑑賞するのが約束でした)、 愉快に飲まなければならないなあ……。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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