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カテゴリ:日々のあれこれ
謹んで地震震災のお見舞いを申し上げます
ROMAFESUTAの影響でハンガリーのジプシーミュージックにドップリ浸ったり、 赤十字社に寄付した都合上、赤十字は血で税金を支払ってきた 恐ろしい歴史の上に成り立っている事を思いつつ 過去に封印した?ハンガリーの記憶が甦ってきた。 1998年、Wienから飛び立った私たちの機体は軍用機に近いもので 外側はグレーに尾翼に飛行機会社のマークが付いている程度のもの。 そして車両を2つ並べた程度の小型機だった。 友人ソンの説明からいうと当時はまだ軍用機を兼ねていたのだとか… 連れのソンは高級食器を手に持っていたが、 上のボックスに入れるように言われるが破損を恐れて拒絶。 やがてパーサーまでやってきて警告を受た。 ソンは「立て」と言われてやっと渋々ボックスに入れた。 (これがラジオや乾電池系だったら即、全身検査だったかもね?) 機体には記憶が定かではないが10人程度しか乗っていなかった。 やがて機体は上空へ。 今度は2機の戦闘機が真横に付き並んで飛ぶ事となった。 オーストリアを出た辺りで今度は別の戦闘機がお出迎え。 遠くには何機も戦闘機が南に向かって飛んでいく。 (な~んで民間機と軍用機が同じ高さで飛んだかは未だに謎である) 着陸後はソンと私だけは機体にしばらく留め置かれた。 その日の出来事は日本に帰国してから知ることとなるのだが はNATO軍によるユーゴスラビア爆撃の当日。 もちろん現地のニュースにもテレビにも放送はされなかった。 今の私なら 「ああ…有事の際は民間機でも撃ち落とされる危険があるって事?」 と思って震え上がった事だろう。 その時は雲の上を一斉に飛ぶ姿はある意味、美しかったのだが 「この空の下で、いつも誰かが人の手で殺されているんだ。」 と思った時から、日本の災害も外国の有事であっても 死に関して私にとっては同じレベルになった。 震災の翌朝、ようやく地元に戻り無音の街中を歩いている際、 「死ぬ時は私は多分独り。 あと、今いきなり死んでも後悔するような生き方はしてないな。 やりたい事は全てやってきているし…」 と余りに鮮明な閃きがあったのと同時に 外国で何度か観光客に銃口を向けているのを目の当たりした時の事も思い出す。 本当はいつも「死は生の一部」だったのに 見ない振りをしてきたのかもしれない。 死ぬ瞬間まで持っていられるのは自分の心と身体だけであるが… 残りの人生は熱く自分らしく生き抜きたいとたいと思います。 ***・──*──・*** 日本赤十字社の東北関東大震災義援金の受付先 こちらをクリック→■ 郵便窓口で振込んだ際の半券(領収証)は保管、 来年の確定申告時に申告すれば、減税できます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.04.04 18:01:32
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