今、書いている、イヤ書かされている稿を載せてみた。
九州の孤島から4c後半時代に大和王権がこの島まで管轄していた遺品がでてくる。
4C後半といえば、卑弥呼の時代からそう遠くは無い。それで、調べてるが、文章力その他能力欠如を感じるばかりです。
走りを載せました。あい、すいません。未完成です・・・
図のように、福岡県宗像市の沖合に約60km程の小さな孤島がある。
この沖ノ島と 陸地のすぐ前の大島、陸の宗像市田島の三つが繋がりを持っている。
それぞれにある三社の総称を宗像大社と呼んでいるのである。
沖ノ島は、周囲4kmで島自体が御神体とされ、現在も女人禁制が守られている。一般人がこの島に上陸できるのは、毎年5月27日、日本海海戦を記念して開かれる大祭である。筑前大島の中津宮参拝後、男性230名が抽選で参加できる。今も島の沖津宮には、神官が交代で1名、仕えている。
筑前大島は周囲13.5kmの人口約1000人の福岡県最大の島であり、島の中津宮は島の東南の船着場の近くに対岸の宗像大社にある辺津宮を望むように位置している。
さて、沖ノ島の遺跡についてふれる時に我々の前に古代の文献として現れるのは、記紀のウケヒの段である。
日本書紀のその部分をあげてみる。
伊弉諾神(イザナミノミコ)は、自分の子供である天照大神に高天原を、素戔男尊(スサノオノミコト)には海を治めるように指示をした。素戔男尊は、根の国に行く前に高天原の姉、天照大神の元へ訪れた。乱暴者である素戔男尊の来訪の真意を確かめようと天照大神との間でウケヒが行われる。
日本書紀には、誓約でウケヒとフリガナがある。
ウケヒについて嘉永2年(1849)に林桜園は、「宇気比考」で、宇気比を誓、祈と書くこともあり、万葉集には祈誓と読ませているが、伊勢物語では呪詛という字を当てて、天照大神と素戔男尊の始点となった宇気比からみれば、後年、本義を引きゆがめられていると述べている。<神風連実記 荒木精之 著より>
ウケヒのやり方は、こうである。天照大神が素戔男尊の剣を三つに折り、高天原の清い井戸の水をかけ噛みつけながら、かつ、水を吹きかける、素戔男尊も天照大神の身体につけていた玉にも同じ行為をする。これによって、息吹から生まれた子供が素戔男尊に男子、天照大神に女子なら素戔男尊に邪心がないと判断しようとしたのだ。
実際やってみると、天照大神が女子を素戔男尊は男子を産んだ。
この天照大神が生んだ三女神が、市枠島姫(イチキシマヒメ)湍津姫(タギツヒメ)、田心姫(タゴリヒメ)である。
素戔男尊は五男神を生んだ。そこで、天照大神が言い付け加えたのは、五男神は、自分自身の飾りの玉、物根〈ものだね〉から生まれたので、自分の子とし、三女神は十握の剣を物根とし生まれたのでスサノオの子だということだ。そして、ウケヒについての本文最後に三女神は次のようにある。「此則筑紫胸肩君等所祭神是也」(これすなはち、つくしのむなかたのきみらがいつまつるかみ、これなり)【日本書紀 上 日本古典文学大系】
ウケヒの段は、本文と一書曰くの書き出しで続く3種類の内容の合わせて4つからなる。この4種類の内容は、大体大差がない。
さて、ここで始めて、三女神を胸肩つまり宗像氏らの神だと言っている。言い換えれば、天皇の祖からでた血縁が筑紫地方の豪族の神と同じだというのである。この豪族名で気になるのは、本文は胸肩等(むなかたのきみ)だが一書の第三には水沼等(みずぬまのきみ)と違う点である。
前出の日本書紀の脚注に宗像氏の説明がある。
胸形・宗形・宗像とも。筑前国宗像郡を本拠とする豪族。宗像神社の神官の家柄。采女を貢進、その一人は天武天皇の間に竹市皇子を生み・・・・
お疲れ様でした。
自販機にポカリを用意しています。各自、自前でお召し上がりください。
誰が飲むかい!・・・・ごもっともで。