大正橋:木津川
大正時代の1915年、大阪市の工業化が農村部に拡大していくことにともなって架けられた橋であり、かつて日本一の支間長を誇るアーチ橋であった。しかし、橋梁技術が未熟な時代の橋であったことなどから、想定外の変形が発生し、補修・補強がくり返された。現在の橋は2代目にあたり、1969年から1974年にかけて架け替えられた橋長80mの連続桁橋である。大正橋は、工業地帯として発展していた現在の大正区の区域(当時は西区の一部)と対岸の大阪市街地を結ぶ目的で、1915年(大正4年)に完成した。大正時代に架橋されたことから「大正橋」と命名された。なお「大正区」(1932年成立)の名前は、この大正橋に由来している。初代大正橋はアーチ支間91.4mのアーチ橋で、当時日本最長のアーチ橋だった。幅員は大阪市電の軌道敷を含めて19.0mあった。架橋計画が持ち上がった当時、予定地のすぐ上流側で創業していたガス会社が原料の船運ができなくなって損害を被るとして反対し、当時の大阪府知事に斡旋を依頼するなどした結果、当時としては異例ともいえる支間長の橋が架けられるようになった。 橋長:79.96m幅員:41m形式:桁橋(連続桁)完成:昭和49年行政区:大正区、浪速区河川名:木津川アクセス:JR環状線 大正駅 大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線 大正駅 4番出口 およそ200m 徒歩3分■木津川■木津川(きづがわ)は、大阪府大阪市南西部を流れる淀川水系の下流における分流で一級河川。流域北部は住宅地、南部は倉庫・造船所などの工業地帯を流れる。大阪府大阪市西区中北部で淀川分流の土佐堀川から分かれ、西区中央部を南へ縦断。(▲右が道頓堀川)大阪ドーム近くの大正橋で西道頓堀川が東から合流、西へは岩崎運河から尻無川への流れがある。本流は大正区と浪速区、西成区との境界を成しながらなおも南下し、千本松大橋付近から徐々に南西流、そして西流へ転じる。下流では大正区と住之江区の境界となり、木津川運河を分けて大阪港南部(大阪南港東部)へ注ぐ。*歴史*古くから掘削され、豊臣家の軍船停泊所の建設や中村勘助の木津川浚渫、江戸幕府の船番所、河村瑞賢の難波島中央部切開、泉尾新田への用水導入、舟囲い場、天満屋敷など多くの歴史背景がある。明治20年ごろまで木津川は船の出入りが多く、賑わっていたが、その後、より水運の良い安治川に主導権を奪われた。具体的には、大正元年(1912年)の川筋の停泊数で、安治川が2,221隻で最多、木津川1,336隻、尻無川620隻となっている。第一次世界大戦時の造船ブームや付近の工場の進出で木津川は再び活気を取り戻した。現在も運河としての役割を担っている。大正橋の東詰めの広場には「大地震両川口津浪記」という大津浪記念碑が設置されている。これは1854年(嘉永7年・安政元年)の安政南海地震の後に発生し大阪を襲った津波の被害と教訓を記したもので、安政2年7月に建立された。■大地震両川口津浪記■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・