英国南部ドライブ旅行*ドーバー城と「ダイナモ作戦」
■2018.7.8(日) ☚へイスティングス城にて。■ドーバー城:はじまり■1066年10月14日、ドーバーより南に行ったヘイスティングスの戦いで、イングランド王ハロルドに勝利した、ノルマン人の征服王ウィリアムは、10月21日にドーヴァーへたどり着き、町を燃やし、8日間ドーバーにとどまって、防御用の要塞を築く。やがて、ウィリアムは、カンタベリーへ赴き、その後、クリスマスの日に、ウェストミンスター寺院で、イングランド王ウィリアム1世として戴冠するためにロンドンへ。これから約20年後の、1086年の土地台帳(ドゥームズデイ・ブック)には、ドーバーには課税の対象となり得るものがほとんど記帳されておらず、ウィリアムによる破壊の度合いがかなりだったのではないかという事。また、ドゥームズデイ・ブックには、ドーバー城も記帳されていないそうで、当時、この場にどのような要塞が建てられていたかは定かでないようです。■ヘイスティングスの戦い■■ドーバー城:歴史■ドーヴァー城の現在の姿の基盤を作るのは、ヘンリー2世(在位1154~1189)。王の影響力から隔離された、教会と聖職者の持つ特権をめぐり、*カンタベリー大司教であったトマス・ベケット*と、ヘンリー2世は大喧嘩。結果、1170年、ヘンリー2世に忠誠を誓う4人の騎士によって、ベケットはカンタベリー大聖堂内にて暗殺。死後、瞬く間に、奇跡を起こす聖人として、イングランドのみならず、キリスト教世界全土にその評判が広がり、カンタベリー大聖堂への巡礼者は、ヨーロッパからもわんさと押し寄せるようになるのです。ヘンリー2世が1180年から、イングランド内の他のどの城の建設よりも大きな金額を注ぎ込んで、ドーバー城を建設させたのは、このカンタベリー巡礼を目当てに、ヨーロッパからやってくる主賓を迎えるにふさわしい場所を設けるためであったと言われています。フランスにも広大な領土を有していたヘンリー2世ですが、フランスへ出かけるときは、彼はドーバーではなく、ポーツマス、サザンプトンの港から出港しており、またドーバー周辺には狩猟ができ、大量に食用の肉、薪などが確保できるフォーレストも無かったため、王自身と宮廷が長期滞在する場所では無かったようです。いずれにせよ、ヘンリー2世が、フランスで死亡した時(1189年)には、ドーバー城は、まだ完成していません。20世紀の第一次世界大戦ではドーバーは英仏海峡防衛の中心となった。第二次世界大戦の間には市街がドイツ軍の爆弾と長距離砲による絶え間ない爆撃を受けた。■ダイナモ作戦は、■第二次世界大戦のダンケルクの戦いにおいて、1940年5月26日から6月4日にかけて行われた、連合軍の大規模撤退作戦のイギリス側コードネームである。イギリス海軍中将バートラム・ラムゼイが本作戦を計画し、イギリス首相ウィンストン・チャーチルにダイナモ・ルーム(ダイナモすなわち発電機があるドーバー城地下の海軍指揮所の一室) にて概要を説明したことから名づけられた。▲地下の野戦病院。9日間に、860隻の船舶が急遽手配され、331,226名の兵(イギリス軍192,226名、フランス軍139,000名)をフランスのダンケルクから救出した。この“小さな船たちの奇跡”はイギリス国民の心に深く刻まれ、大いに士気を高揚することとなった。▲戦争の間、ドーバーの崖の下の洞窟やトンネルは防空壕として使用された。▼▲地下ツアーがあって内部を見ることが出来る。 ▲地下トンネル内のスペース。▼■映画ダンケルク■■人生はシネマティック■など、「ダイナモ作戦」をテーマにした映画を見たので当時のことがよく分かった。■現在ではドーヴァー海峡を■泳ぐスイマーたちの目印であり、渡り切った暁には城下のパブで祝杯を上げるのが通例となっているという。☝カンタベリー大聖堂**カンタベリーが巡礼地として脚光を浴びたのは12世紀。**きっかけとなったのは、大司教トマス・ベケットにまつわる奇跡の物語。国王と対立の末、カンタベリー大聖堂の中で暗殺されたベケットが、死後、難病や大けがに苦しむ人々のもとに現れ、治してくれたという話が広まり、世界各国から巡礼者が訪れるようになったのです。カンタベリー、ヘイスティングス、そしてドーバー・・・。このあたりは、イギリスの歴史の宝庫だ。Heathwood・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・