九州旅行2018:福岡県:金印の島・志賀島(しかのしま)
■2018.10.20(土)~10月21日(日)■国民休暇村・志賀島(しかのしま)■に2泊した。志賀島(しかのしま)は、福岡県福岡市東区に所属する島である。博多湾の北部に位置し、海の中道と陸続きである。 砂州により本土と陸続きになった*陸繋島*。全国的にも非常に珍しい。規模は小さいが半島の定義を満たしている。 博多湾を望むように伸びる海の中道の先端にある志賀島。四方を白い海岸線に縁取られた緑の小島の趣です。海水浴場の目の前にある休暇村は、玄界灘に沈む美しい夕日が自慢で、全室オーシャンビュー。玄界灘を一望しながら、くつろげます。また、温泉館「金印の湯」で玄界灘に沈む夕日を眺めながら「源泉かけ流し」の温泉に入れば、日々の疲れがたちどころにとれていくようです。島の南部と西部は博多湾に接し、北部と東部は玄界灘に接する。北部から東部にかけての沿岸は岩場がある。(▲*陸繋島*の沖津島)北西部の60mほど沖合いには沖津島という小島があり陸繋島となっている。 (▲*陸繋島*の沖津島)■*陸繋島(りくけいとう)*とは■砂州によって大陸や大きな島と陸続きになった島のことである。 海岸近くに島があると沖からの波が島の裏側で打ち消しあい、波の静かな部分ができる。ここには沿岸流などで運ばれてきた砂が堆積しやすく、やがて海岸と島を結ぶ砂州が成長し陸続きとなる。この砂州のことは陸繋砂州(りくけいさす)あるいはトンボロ(tombolo)という。 ■万葉の歌■「 志賀の山いたくな伐りそ荒雄らが よすがの山と見つつ偲はむ 」 (巻16・3862)この歌碑は、志賀島の北端国民休暇村の南側に広がる玄界灘を望む丘の上に建てられている。 奈良時代に、大宰府が対馬に食料を送る船の舵取りとなった宗形部津麻呂に代わって出航し、途中の暴風雨により帰らぬ人となった志賀の荒雄にまつわる歌であり、荒雄を失った妻子の心の痛みを山上憶良が詠んだとも伝えられる。 志賀の山の木をひどく切ってくれるな。 荒雄ゆかりの山と、見ながら思い出しましょうとの解釈や、 荒雄はきっとかえって来るだろう。 志賀の山の木が切られて様子が変わっていたら、 荒雄は戸惑うに違いないから、ひどく木を伐らないでください、との解釈もある。 「大船に 小船引きそへ かづくとも 志賀の荒雄に かづきあはめやも」(巻16・3869) ☆歌意は《たとえ大小の船を出して大勢の人々が海中に潜ったとしても、志賀の海人の荒雄にめぐり会えるだろうか、おそらく会えないだろう。》■荒雄とは■?-? 奈良時代の漁師。筑前(ちくぜん)(福岡県)の人。神亀(じんき)年間(724-729)友人の宗形部津麻呂(むなかたべの-つまろ)にかわって,対馬(つしま)(長崎県)に防人(さきもり)の食糧をはこぶ船のかじ取りをし,暴風雨にあい遭難死した。これをかなしんで妻子ら(一説には山上憶良がよんだ歌10首が「万葉集」巻16におさめられている。 『志賀の浦に漁する海人明け来れば 浦廻漕ぐらし楫の音聞こゆ』しかのうらに いざりするあま あけくれば うらみこぐらし かじのおときこゆ この歌は、万葉集( 巻十五・三六六四 )で、博多湾の志賀の浦で漁 ( いざり ) をする海人 ( あま ) が、夜が明けてくると海岸沿いに舟を漕いで家に向かって急いでいるらしい、櫓の音が聞こえるという意味である。今の自分たちの境遇を思い、望郷の念を歌っているものである。この歌碑は、志賀島潮見公園の突端にある。万葉集で志賀島を歌ったものは、全部で16首になる。■首切塚(蒙古塚)■1274年(文永11年)、文永の役にて撤退する際に座礁した蒙古兵が志賀島で捕虜となり、うち220人ほどが首切塚(蒙古塚)で斬首されたとされる。1281年(弘安4年)、弘安の役では 志賀島の戦いの舞台となる。博多湾に現れた元軍は、石築地(元寇防塁)からの上陸を避け、陸繋島である志賀島を占領し軍の停泊地とした。これに対して、日本軍は海上と海の中道の陸路から元軍に総攻撃を行った。この志賀島の戦いで日本軍は大勝し、元軍は志賀島を放棄して壱岐島へと後退した。島内に残る火炎塚のある場所では高野山の僧侶によって敵軍退散の祈祷がおこなわれた。■金印公園■国宝にも指定されている「漢委奴国王((かんのわのなのこくおう)」の金印。この金印が志賀島で発見されたことを記念してつくられた公園です。展望広場には、金印をかたどった石のモニュメントと実物大の金印のレプリカを配置。 能古島や博多湾が一望できる志賀島の小高い丘の上にあり、海に沈む夕日などの美しい景色が楽しめます。■九州旅行2015.10.1~10.11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・