山口県・萩・夏蜜柑と浜崎地区:萩城下の港町
■2020.11.20(金)■青海島(おおみじま)■の後、萩に行った。萩のあちこちに見える、古い屋敷と塀越しの夏蜜柑のは、いとおかし。■萩の夏ミカン■毛利藩の政治経済の中心地として栄えた萩でしたが、1863年風雲急変を告げる幕末の政治事情から藩主は萩から山口に移り、藩経済に依存していた萩は侍の流出により大打撃を受けました。そして新政府樹立後の士族の給禄奉還が萩の経済的陥没に追い討ちをかけ、やがて明治9年の萩の乱が勃発することとなりました。萩の乱は首謀者の前原一誠の逮捕で鎮圧されましたが、萩の政治的、経済的打撃と萩士族の失意ははかり知れないものがあったようです。 このようなとき、新政府の要職を歴任した小幡高政が母親の看病の為、小倉県令の職を辞し萩に帰り、廃屋同然となった広大な萩の土地に生気を取り戻すため、夏みかんを栽植しようと発想しました。そして明治9年種子を蒔き、翌明治10年苗木10,000本を接木し、明治11年苗木を士族に頒布しました。史料によると小幡高政の言葉として「明治9年、夏橙ヲ萩ノ物産トスルコトヲ主唱シ、同志を募リテソノ栽培ヲ奨励ス。ソノ団結ヲ耐久社トイフ。」とあります。山口県のガードレールが黄色いのは、夏蜜柑色にしているからだそうだ。ガイドさんの制服が黄色なのも、このせいなのか、聞くのを忘れた。萩の古い建物が残る「浜崎地区」に向かった。(▲萩藩御船倉。)「浜崎」は、「はまさき」と濁らない。山崎など、濁るのと濁らない読み方があるが、これは、兵庫県・姫路市くらいから西が濁らないのだそうだ。(NHKの「日本人のお名前」)。そういえば、姫路の西、龍野市の少し山奥に入ったところに「山崎」という地区があるが、「やまさき」と言っていた。ガイドさんの案内でまず行ったのが、萩藩御船倉。ここは、昔、お殿様の船をしまっていた倉との事。殿さまは、ここから船に乗って行ってたそうだ。藩主の御座船を格納した場所。現在船倉は一棟しかないが、天保年間(1830~44)の「八江萩名所図画」では四棟が描かれている。明治初年と昭和25年に取り壊された。今では陸地に倉庫のように建っているが、元々倉の中まで水を引いて、大型船が自由に出入り出来た。■萩市浜崎(はまさき)■浜崎は萩城築城以前から漁村であり、海上交易の中継点であったと思われる。城下町成立後は漁港でであるとともに、商港として萩城下の海に開かれた玄関口となった。浜崎新丁は毛利氏の萩入城以後新たに開かれた地で、元禄元年(1688)から同5年の間に開かれたと云われる。1652年に浜崎の商人が商売のために大坂に向かった時のこと。その途中で難風に遭い住吉宮を勧進すると祈ったところその商人は助かった。帰国後、この話を申し出ると勧進が許可され、この地に住吉神社が建てられたとのことだ。住吉神社の鳥居の前に、井上剣花坊の川柳が!!この人は、萩の人だったのか。■道頓堀の雨に別れて以来なり■という、川柳の明治、大正、昭和史を読んだが、剣花坊の名前は何回も出てきた。また、まだ作家ではなく、川柳を愉しんでいた吉川英治とも知り合いだったそうだ。萩の市内から少し離れた所の高台にある、萩反射炉跡に行ってきた。●58Km ●10266歩■山口県のおすすめスポット■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・