6681538 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

おしゃれ手紙

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X
2017.06.28
XML
カテゴリ:八百八橋散歩
地下鉄天満橋駅から大川を渡った左側(西)に河岸公園があり、「天満の子守歌」の像がある。

天満の子守歌(天満の市)
 
ねんねころいち 天満の市で
 大根そろえて 舟に積む

舟に積んだら どこまでゆきゃる
 木津や難波の 橋の下

橋の下には 鴎がいやる
 鴎とりたや 竹ほしや
■解説■
(▲大川の北側もある道路から写す。)
木津村と難波村は、一世紀近くにわたって、天満市場に対抗する地元の市を開こうと活動を続けていた。
その中で、自分たちの主張を示すために作られた唄が「天満の市」であったと、右田伊佐雄は解説している。
当時、木津と難波の両村からは、大阪へ子守娘が多く出ていたので、彼女たちの歌う守り子歌として近畿一円から四国、中国地方へと広まったのではないかと推測される
公園にある「天満青物市跡」の石碑。 
天満の市
江戸時代、大坂には三つの市があった。
(一) 堂島の米市。全国の米の相場がここで決まった。
(二)雑喉場(ザコバ)。遠近の鮮魚が集散する魚市場である。
(三)天満の青物市。青物一般および果物・乾物が取引された。
いずれも、幕府から公認をうけ、その権勢はほかに並ぶものはなかった。
落語『千両みかん』は、この青物市が舞台になる。

地下鉄天満橋駅から大川を渡った左側(西)に河岸公園があり、青物市跡の石碑がある。
古地図を参照すると、この南天満公園一帯が青物市だった。
大小の青物問屋が軒を並べていた。

天満の市は、秀吉の時代からあった。
司馬遼太郎氏によれば秀吉は、天満の市の繁忙な様子を見るのを好み、妻妾をひきつれて遊びにやってきた。
市の人々が畏まってしまうのを「善し、善し」ととどめた。
「わしにかまわず、普段通りにせよ」という意味らしい。
人々は、そんな親しみやすい太閤さんが来るのを歓迎したという。


             (▲梅。近くに天神さんがある。)
大川:天満橋
天満橋界隈:将棊島
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
バナー ボタン  ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2017.06.28 13:55:03
コメント(2) | コメントを書く


PR

Recent Posts

Category

Archives

Favorite Blog

図書館予約の軌跡421 New! Mドングリさん

三代にわたる女性た… New! hoshiochiさん

安楽死が合法の国で… New! ぶどう^_^さん

松本人志のパワハラ… New! h1212jpさん

高齢者の気持ち New! あけみ・さん

Freepage List

Comments

Keyword Search

▼キーワード検索

Calendar


© Rakuten Group, Inc.
X