テーマ:大阪・大阪人(88)
カテゴリ:八百八橋散歩
地下鉄天満橋駅から大川を渡った左側(西)に河岸公園があり、「天満の子守歌」の像がある。
■天満の子守歌(天満の市)■ ねんねころいち 天満の市で 大根そろえて 舟に積む 舟に積んだら どこまでゆきゃる 木津や難波の 橋の下 橋の下には 鴎がいやる 鴎とりたや 竹ほしや ■解説■ (▲大川の北側もある道路から写す。) 木津村と難波村は、一世紀近くにわたって、天満市場に対抗する地元の市を開こうと活動を続けていた。 その中で、自分たちの主張を示すために作られた唄が「天満の市」であったと、右田伊佐雄は解説している。 当時、木津と難波の両村からは、大阪へ子守娘が多く出ていたので、彼女たちの歌う守り子歌として近畿一円から四国、中国地方へと広まったのではないかと推測される 公園にある「天満青物市跡」の石碑。 ■天満の市■ 江戸時代、大坂には三つの市があった。 (一) 堂島の米市。全国の米の相場がここで決まった。 (二)雑喉場(ザコバ)。遠近の鮮魚が集散する魚市場である。 (三)天満の青物市。青物一般および果物・乾物が取引された。 いずれも、幕府から公認をうけ、その権勢はほかに並ぶものはなかった。 落語『千両みかん』は、この青物市が舞台になる。 地下鉄天満橋駅から大川を渡った左側(西)に河岸公園があり、青物市跡の石碑がある。 古地図を参照すると、この南天満公園一帯が青物市だった。 大小の青物問屋が軒を並べていた。 天満の市は、秀吉の時代からあった。 司馬遼太郎氏によれば秀吉は、天満の市の繁忙な様子を見るのを好み、妻妾をひきつれて遊びにやってきた。 市の人々が畏まってしまうのを「善し、善し」ととどめた。 「わしにかまわず、普段通りにせよ」という意味らしい。 人々は、そんな親しみやすい太閤さんが来るのを歓迎したという。 (▲梅。近くに天神さんがある。) ■大川:天満橋■ ■天満橋界隈:将棊島■ にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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