テーマ:トリビア?(277)
カテゴリ:八百八橋散歩
江戸時代の中之島東端(現在の東洋陶磁器美術館辺り)には、 ■備中山崎藩(成羽藩)■ 蔵屋敷があり「山崎の端(鼻)」と呼ばれた。 明和4年(1767)頃にその上流部が築地されると、 <鼻から鼻が出る> という洒落から「風邪っ引き新地」と呼ばれた。 この当時の天神橋、難波橋は中之島に橋脚はなく、大川を一気に跨ぐ 長大な橋で、 天満橋と合わせて「浪速三大橋」と呼ばれていた。 明治9年の埋め立てにより東端がわずかに難波橋の上流に達し、 大正10年(1921)には、大川浚渫によって出た土砂によりさらに東端の 上流部を埋め立てて現在の島域となり、難波橋と天神橋も中之島に橋脚を 据えるようになった。 一方、中之島西端にも蔵屋敷が並んだが、 ここでは「端建蔵(はたてぐら)」と呼ばれ、その地名になった。 堂島川、土佐堀川が合流し、木津川が分流する地だけあって橋が 密集し、宮本輝の小説「泥の河」も、この地に架かる 昭和橋、端建蔵(はたてぐら)、船津橋の描写から書き起こしている。 大阪中之島今昔(いまむかし)案内より。 ▲中之島公会堂の近くに東洋陶磁器美術館があり、 その近くに■カフェ・GARB weeks(ガーブ ウィークス)■がある。 この辺りは、「風邪っ引き新地」に当たるのだと思う。 明和4年(1767)前には、この辺りは河だったのだろう。 地図の下部分辺りか。 この辺りから難波橋を見る。 明治9年には、埋め立ては難波橋を越えた。 にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2017.07.30 15:29:54
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