テーマ:懐かしい昔の話(548)
カテゴリ:昭和恋々
親戚の家から戦争中と戦後の暮らしを書いた文章が出てきた。 書いたのは、この家の主婦、晶子(仮名)。 以下の文章は、名前や、読んでいる人に分かりやすくするために、表現に少し手を加えているが内容は、まったく変えていない。 堺の空襲 1945年(昭和20年)7月9日 被災場所:堺市戎町・全焼 ★家族★ ★夫:中田 春彦 38歳:国民学校教員 ☆妻: 晶子 34歳:(記録) ☆長女: 信子 15歳:女学校4年 ★長男・ 良一 12歳中学1年 ★二男: 清二 9歳国民学校4年 ☆二女: 洋子 5歳 ★三男: 謙三 生後50日(以上、仮名) 学童疎開に付き添いに行くまでの主人は、隣組長をしていました。 警報の度に学校から電話があり、走って学校から駆けつけていました *1945(昭和20)年*三月に大阪の親戚が全焼したため、主人は急に、堺市・百舌鳥(もず)、小山田(河内長野)の親戚の知り合いに荷車に荷物を乗せて長男と二人で預けに行きました。 それで、組長を隣組の人に変わっていただきました。 身重な私は不安な日々を子ども三人と共に過ごしておりました。 二女は、ただ一足の新しい靴を避難する時にはくように枕元に置いてあったのですが、実際に履くときに片方しか見つからず下駄ばきで逃げました。 (長女、長男は新しい靴を履いて逃げました。) 「その下駄をなくしたら、履くものがなくなる。」と兄や姉から言われ、自分でもそうだと思い、寝る時は毎晩汚い下駄を枕元に置いて寝るのを見て、哀れでした。 私も下駄の鼻緒が切れたらと思うと不安でした。 女学生の長女は、学徒動員で、千代田工学に、レンズ磨きに行っていました。 給食として、おにぎりが出された事があったそうです。 二男は学童疎開をしていました。 二男の疎開に際しては、 「一家全滅しても」と思い家族全員の写真と荷物を預かっていただいている人の住所氏名を二男の荷物の中に入れて持たせました。 出産まじかで会いに行くことのできない二男に沢山ハガキを持たせました。 二男の便りは決まって、 「ゴマ塩を持って来てくれ。」と書いてありました。 二男の本心は、いろんなものを付け届けしてもらう友達がうらやましくて書いていたらしいです。 時々、面会に行くのは主人でした。 疎開から解放された後で、ゴマ塩の入って瓶ばかり出てきたので、胸が打たれました。(続く) にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.07.10 02:19:49
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