テーマ:懐かしい昔の話(548)
カテゴリ:昭和恋々
■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後<1>学童疎開の息子が欲しがったもの■
■1945(昭和20)年5月25日。 主人が大阪府堺市の市役所へ連絡のため深井から帰って来た夜、私は三男を出産しました。 「やれやれ良かった」と思いました。 空襲のおりは、子供を無事に避難させたいと思い、乳母車に少しある、食料を用意しておりました。 枕元には、リュックサック、防空頭巾と、*さら*(新品)の靴を用意し、いつでも逃げられるようにしておりました。 家の中には、階段の下に箪笥で空間を作り、 一時避難できる用意をしておりました。 庭には防空壕を掘り、ミシン等、貴重と思われるものを出来るだけ多く入れました。 火気から少しでも防ぐために、豪の中の火鉢に水をいっぱい入れました。 戦後掘りだしたときには、火鉢の水は、全部蒸発していました。 子どもたちだけなので、豪の蓋をし、火が中に入るのを防ぐために蓋と、石炭箱二杯の砂を用意しておきました。 瀬戸物は床下に穴を掘って、埋めておきました。 戦後に掘り出してみると、熱で形が、歪んでいるものが沢山ありました。 過去帳、両親の写真、預金通帳を一つのカバンに入れ、いつも身近においていました。 雑炊のある日は、大きい子ども二人は、ご近所の人に20分も歩くところまで、食べに連れて行ってもらったこともありました。 近所でうどんの配給時には、妊婦である私は、お鍋を持って買いに並びました。 妊婦用の卵のチケットがあっても買えない日がほとんどでした。 子ども用のパンの配給は大体買えました。 マッチの配給もありましたが、配給だけでは足りませんでした。 買いだめの好きな私は、たくさんためておりましたので色々な物資にはあまり不自由はしませんでした。 親戚の家から戦争中と戦後の暮らしを書いた文章が出てきた。 書いたのは、この家の主婦、晶子(仮名)。 以下の文章は、名前や、読んでいる人に分かりやすくするために、少し手を加えている。 堺の空襲 1945年(昭和20年)7月9日 被災場所:堺市戎町・全焼 ★家族★ ★夫:中田 春彦 38歳:国民学校教員 ☆妻: 晶子 34歳:(記録) ☆長女: 信子 15歳:女学校4年 ★長男・ 良一 12歳中学1年 ★二男: 清二 9歳国民学校4年 ☆二女: 洋子 5歳 ★三男: 謙三 生後50日(以上、仮名) にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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